第38話 管理の言葉で語るということ
佐伯が再び現場に姿を見せたのは、それから三日後だった。事前の連絡はない。視察でもない。医療安全ラウンドの予定も入っていない。だが、その歩き方には目的があった。評価室に入る前に一度立ち止まり、内部の様子を確認してから扉を開ける。その一連の動作が、彼自身の迷いを表しているように見えた。
評価はすでに始まっていた。対象は脳卒中後の男性で、歩行自立に近い状態だが、注意分配が苦手で、声かけが遅れると動作が急になる傾向がある。典型的な「基準上は問題ないが、現場では油断できない」ケースだった。叶多は患者の隣に立ち、視線と呼吸の変化を追いながら、必要最小限の声かけを行っている。
佐伯は、少し離れた位置で立ち止まり、何も言わずにその様子を見ていた。昨日までとは違う。メモも取らない。時計も見ない。ただ、判断が生まれる瞬間を、逃さないようにしている。
評価は無事に終わった。事故は起きない。だが、患者が椅子に腰掛けた直後、深く息を吐いた。その表情を、佐伯は見逃さなかった。
「今の、少し確認してもいいですか」
佐伯が、評価後の共有が始まる前に口を開いた。現場の全員が、視線を向ける。
「評価が終わった瞬間、患者さんの呼吸が変わりましたね」
誰も否定しない。だが、誰も先に言わなかったことでもある。
「基準上は問題ありません。ただ、終わったと認識した瞬間に、緊張が抜けた」
佐伯は、自分の言葉で状況を整理しようとしていた。これまでなら、ここで「問題なし」と結論づけて終わっていたはずだ。
「この変化を、どう扱うべきか」
その問いは、現場に向けられているようで、実際には自分自身に向いていた。
叶多は、すぐには答えなかった。ここで現場の言葉をそのまま投げ返せば、また整理される。佐伯が持ち帰れる形に変換されてしまう。
「扱う、という言い方自体が、難しいと思います」
少し間を置いて、そう答えた。
「数値にも、事故にもならない。ただ、繰り返される」
「繰り返される、という点が重要ですね」
佐伯は頷いた。
「管理として扱うには、再現性が必要です」
「完全な再現性はありません」
「ええ」
佐伯は否定しなかった。
「ですが、条件付きの再現性はあります。評価の終了、達成感、緊張の解除。その組み合わせです」
その言葉を聞いて、成瀬がわずかに目を見開いた。佐伯が、現場の言葉を管理の文脈に翻訳し始めている。
「つまり、評価の終わり方が、状態変化に影響する可能性がある」
佐伯は、続けた。
「これは事故ではありません。ですが、放置すれば事故につながる可能性があります」
その表現は、これまで佐伯が避けてきたものだった。結果が出る前の段階を、安全管理の対象として言語化している。
「正式な提案ではありませんが」
佐伯は、前置きをした。
「評価終了後、一定時間の観察を標準化することを検討したい」
場が、ざわつく。観察を標準化する。それは、現場の裁量を奪う提案にもなり得る。
「ただし」
佐伯は、すぐに付け加えた。
「その観察内容を、数値だけで縛るつもりはありません。評価者の所感を含める」
所感。その言葉が、初めて管理の口から出た。
「所感は、記録になりません」
若手が、恐る恐る言う。
「なりません」
佐伯は、はっきりと答えた。
「ですが、議事録には残します。判断があったという事実として」
判断があったという事実。それは、結論でも、正誤でもない。判断の存在そのものを残すという発想だった。
叶多は、その言葉を聞きながら、胸の奥で何かが静かに動くのを感じていた。完璧ではない。むしろ、歪みを含んでいる。管理が介入すれば、新たな線引きが生まれるのは避けられない。
それでも、これは確かに変化だった。
「現場の言葉を、すべて管理の言葉に置き換えることはできません」
佐伯は、最後にそう言った。
「ですが、置き換えようとする努力を、これまで私はしてこなかった」
その自己認識は、遅すぎるかもしれない。だが、ゼロではない。
評価室を出るとき、佐伯は振り返り、叶多に向かって言った。
「あなたがやってきた共有は、無駄ではありませんでした」
それは、勝利宣言ではない。和解でもない。ただ、事実の確認だった。
佐伯が去ったあと、成瀬が静かに言った。
「管理の言葉で語る、か」
「完全には、無理ですね」
「無理だ」
成瀬は頷いた。
「だが、重なり合う部分はある」
叶多は、評価室の床に引かれたテープを見つめた。管理と現場、その境界線は、依然として存在する。だが、昨日までよりも、少しだけ太くなっている。
問いは、まだ残っている。この新しい枠組みが、現場を守るのか。それとも、別の沈黙を生むのか。答えは、すぐには出ない。
だが少なくとも、判断はもう一人で消されるものではなくなりつつあった。
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