第39話 善意の副作用
新しい枠組みは、導入された瞬間から、現場に静かな歪みを生み始めていた。
評価終了後の一定時間観察。その方針自体に、異論は少なかった。誰もが、終わった直後に状態が変わる瞬間を経験している。事故に至らずとも、ひやりとする場面は確実に存在する。だからこそ、「観察する」という行為自体は、受け入れられやすかった。
問題は、その先だった。
観察は、誰が、どこまで、何をもって終わりとするのか。数値で縛らないと言われても、現場は自然と基準を探し始める。基準がなければ、責任の所在が曖昧になるからだ。
評価室の一角で、若手同士が小声で話しているのを、叶多は耳にした。
「昨日の観察、長すぎたかな」
「分からない。五分でいいって聞いたけど、患者さんが立ち上がろうとしたから止めた」
「それ、記録にどう書いた」
「……所感、って書いたけど」
声は、どこか不安げだった。
所感は残る。だが、それは判断の正しさを保証しない。むしろ、後から問われる可能性を孕んでいる。その感覚は、現場の人間なら誰もが理解している。
午後の評価で、その歪みははっきりと形になった。
対象は、比較的若年の男性。回復も早く、本人も自信を持っている。評価はスムーズに進み、歩行も安定していた。終了後、椅子に座らせ、観察に入る。
一分。
二分。
特に変化はない。
患者が言った。
「もう大丈夫ですよね」
その一言に、空気が揺れる。
ここで終わらせるべきか。
それとも、もう少し見るべきか。
叶多は、迷った。昨日までなら、迷わなかった場面だ。だが、今は違う。観察を終える判断もまた、記録される。所感として残る。
「あと、少しだけ」
そう答えた瞬間、自分の声が慎重すぎることに気づいた。
三分が過ぎ、四分が過ぎる。患者は落ち着いている。結局、五分で観察を終了した。
事故は起きない。問題もない。
だが、評価後の共有で、若手が言った。
「正直、何を見ればいいのか分からなくなりました」
場が静まる。
「変化が起きなかった場合、それをどう判断すればいいのか……」
それは、もっともな疑問だった。変化が起きなかったこと自体が、良い結果なのか。それとも、見逃しているだけなのか。管理の枠組みは、「観察する」ことを示したが、「観察の意味」までは定義していない。
成瀬が、ゆっくりと口を開いた。
「観察は、安心のためじゃない」
「え?」
「判断の責任を、引き延ばすためでもない」
成瀬は、言葉を選びながら続けた。
「観察は、問いを増やす行為だ」
問いを増やす。その表現に、叶多ははっとした。
「今、分からなくなっているのは、問いが増えたからだ」
成瀬は言った。
「これまでは、評価を終えた瞬間に、問いを閉じていた。今は、それを閉じない」
閉じない問いは、不安を生む。だが、それは悪いことではない。問題は、不安をどう扱うかだった。
その日の夕方、佐伯から再び連絡があった。
――現場で混乱が出ていると聞いています。
短い文面。だが、含意は重い。
叶多は、すぐに返信した。
――混乱ではなく、問いが増えています。
しばらくして、返事が来た。
――問いが増えることは、必ずしも安全につながりません。
その一文を見て、叶多は息を吐いた。ここが、分岐点だ。問いを減らす方向に戻すのか。それとも、問いを抱えたまま進むのか。
成瀬は、静かに言った。
「副作用が出るのは、効いている証拠だ」
「止めますか」
「いいや」
成瀬は、首を振った。
「止めるなら、最初からやるな」
副作用という名の現実は、管理の想定を超え、現場の覚悟を試している。佐伯の提案は、間違ってはいない。だが、完成してもいない。
叶多は、ノートを開き、新しい項目を書き加えた。
観察で何も起きなかったときの判断
それは、これまで存在しなかった問いだ。だが、現場には確実に必要な問いでもある。
管理の言葉が現場に降りてきたとき、現場はそれをそのまま受け取らない。解釈し、歪め、時には拒否しながら、自分たちの形に変えていく。
副作用は、失敗ではない。
適応の過程だ。
叶多は、そう信じていた。
そして同時に、この過程が、次の衝突を生むことも理解していた。問いが増え続ければ、いずれ誰かが耐えきれなくなる。その「誰か」が、どちら側にいるのかは、まだ分からない。
だが一つだけ、確かなことがある。
もう、元の場所には戻れない。
変化は、いつも静かな顔で現れる。
佐伯が持ち帰った提案は、数日後に「試行」という形で現場に降りてきた。評価終了後、一定時間の観察を行い、その際に評価者の所感を共有する。数値化はしないが、「判断があった」という事実だけを議事録に残す。管理側としては、かなり踏み込んだ内容だった。
だが、その善意は、思わぬ歪みを生み始めていた。
最初に変わったのは、評価の終わり方だった。評価者は、以前よりも慎重になった。止めるかどうかだけでなく、「止めたあと、どれだけ観察するか」「所感として何を言うか」を考えるようになった。判断の質が上がったとも言える。だが同時に、迷いの重さも増していた。
午前の評価を終えたあと、若手の療法士がぽつりと漏らした。
「正直、評価を終わらせるのが怖くなりました」
その言葉に、誰もすぐ返せなかった。
評価を終えるという行為が、新たな責任を生む。観察時間中に何か起きれば、「終わらせた判断」が問われる。たとえ事故が起きなくても、所感が議事録に残ることで、自分の迷いが形として残る。
善意が、慎重さを生み、慎重さが、萎縮を生む。
叶多は、その空気を敏感に感じ取っていた。これは、五年前とは逆の歪みだ。あのときは、判断が消されていた。今は、判断が過剰に意識され始めている。
午後の評価中、成瀬が小さく言った。
「線が、少し前に出すぎている」
「ええ」
叶多も同じことを感じていた。
「守ろうとすると、動けなくなる」
成瀬は、苦い笑みを浮かべる。
「管理が悪いわけじゃない。だが、管理の善意は、現場を均す」
均す。その言葉は、以前にも聞いた。今度は、逆方向からだ。
評価後の共有で、ある療法士が所感を口にした。
「正直、途中で止めるべきだったか、最後までやるべきだったか、今も迷っています」
それは、正直な言葉だった。だが、場の空気が一瞬、重くなる。
「その迷いは、議事録に残りますか」
誰かが、冗談めかして言った。だが、笑いは起きない。
佐伯は、その場にはいない。管理は、直接介入していない。それでも、管理の視線は、確かにそこにあった。
夜、叶多は一人でノートを見返していた。共有の言葉が増えた分、迷いも増えている。消されていた判断が、今度は重荷としてのしかかっている。
これは、正しい方向なのか。
翌日、佐伯から連絡が入った。
「最近の運用について、現場の反応を聞きたい」
叶多は、正直に答えた。
「萎縮が出ています」
「……そうですか」
佐伯の声が、少し低くなる。
「判断を残せば、自由になると思っていました」
「自由にはなりません」
叶多は、はっきりと言った。
「判断は、重くなります」
電話の向こうで、佐伯が息を吐く。
「善意が、現場を縛ることもある」
その言葉は、自省だった。
「だから、線引きが必要です」
叶多は続けた。
「何を残し、何を残さないか。その線を、現場と一緒に決める必要があります」
「管理が決めるのではなく」
「一緒に、です」
沈黙が流れる。だが、以前とは違う沈黙だった。否定でも、整理でもない。考えるための間だ。
数日後、佐伯は再び評価室に現れた。今度は、立ち会いではなく、話を聞くために。
「所感を、全て議事録に残すのはやめます」
彼は、そう切り出した。
「判断があったという事実だけを残す。迷いの内容までは、管理は持ちません」
場が、静かに息を吸う。
「迷いは、現場で共有してください」
それは、管理が一歩引いた瞬間だった。
完全な解決ではない。だが、線が引き直された。
評価が終わり、いつもの共有が行われる。迷いは語られるが、それが管理の書類に載ることはない。消されもしないが、晒されもしない。
叶多は、その空気に、かすかな手応えを感じていた。
善意には、副作用がある。だが、副作用を自覚した善意は、少しずつ形を変えられる。
管理と現場の関係は、まだ不安定だ。それでも、以前のように一方的ではない。問いは、行き来している。
判断は、守られるものでも、晒されるものでもない。
引き受け合うものになりつつあった。
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