第37話 問い返される側

 会議室に入った瞬間、叶多は空気の違いを感じ取った。机の配置も、照明の明るさも、いつもと変わらない。それでも、ここは評価室とは別の場所だ。患者はいない。器具もない。数値もログも、この場には持ち込まれていない。判断が行われない代わりに、判断について語られる場所。佐伯が立つには、最も安全な空間のはずだった。


 佐伯は、すでに席についていた。クリップボードは置かれていない。代わりに、両手を机の上に揃え、指を軽く組んでいる。その姿勢が、叶多には少しだけ意外に映った。守りに入っている、というほどではないが、これまでの余裕のある立ち姿とは違う。


「昨日は、ありがとうございました」


 佐伯が、先に口を開いた。声は落ち着いている。謝意でも、社交辞令でもない、事実としての礼だった。


「現場を、直接見る機会は多くありませんから」


「こちらこそ」


 叶多は、椅子に腰を下ろしながら答えた。成瀬は、少し離れた位置に座っている。発言するつもりはなさそうだ。ただ、そこにいる。それだけで、意味がある。


「昨日の評価についてですが」


 佐伯は、視線を落とし、言葉を選ぶように続けた。


「止める判断自体は、適切だったと思います」


「ありがとうございます」


「ただ、その判断が、どこから来たのか。それを、私は理解しきれていません」


 叶多は、その言葉を聞いて、胸の奥がわずかに熱くなるのを感じた。問い返されている。しかも、形式的な問いではない。


「数値でも、基準でもありませんでした」


 佐伯は、はっきりと言った。


「では、何を根拠に止めたのですか」


 その問いは、これまで叶多が何度も飲み込んできたものだった。評価表には書けない。ログにも残らない。だが、確かに存在する判断の源。


「患者さんが、終わったと思った瞬間に、気が抜けると予測したからです」


 言葉にした瞬間、自分でも驚くほど、はっきりしていた。


「それは、経験ですか」


「経験だけではありません」


 叶多は、間を置かずに続ける。


「看護師、他の療法士、複数の立場の人間が、同じ違和感を共有しています。評価が終わった直後に、状態が変わる。数値ではなく、反応として」


 佐伯は、黙って聞いている。遮らない。その沈黙が、これまでと違っていた。


「しかし、それは再現できますか」


「完全にはできません」


「では、なぜ安全管理として扱う必要があるのですか」


 その問いは、核心だった。佐伯の論理は一貫している。再現できないものは、管理できない。管理できないものは、制度に載せられない。


「扱わなければ、同じ場所で、同じ迷いが繰り返されます」


 叶多は、少し声を低くした。


「そのたびに、誰かが一人で抱え込みます。止めた理由を、説明できないまま」


 佐伯の指が、わずかに動いた。


「説明できない判断は、危険です」


「ええ」


 叶多は、頷いた。


「だからこそ、共有が必要なんです。整理される前の段階で」


 佐伯は、ゆっくりと息を吐いた。


「あなたは、判断を属人的にしたいわけではない」


「したくありません」


「では、なぜ記録にしない」


「記録にした瞬間、結論だけが残るからです」


 叶多は、言葉を選びながら続けた。


「迷いの過程が削ぎ落とされます。止めた理由が、正解だったかどうかだけに変換される。それでは、次に続く人が、同じ迷いを引き受けることができません」


 会議室に、短い沈黙が落ちた。佐伯は、視線を上げ、初めて真正面から叶多を見た。


「あなたは、管理を否定しているわけではない」


「否定していません」


「だが、管理の外にあるものを、現場で守ろうとしている」


 それは、確認だった。責めではない。


「はい」


 佐伯は、しばらく何も言わなかった。考えているのが、はっきり分かる沈黙だった。これまでのように、即座に整理の言葉が返ってこない。


「昨日、現場に立って」


 佐伯が、ぽつりと口にした。


「評価が終わった瞬間の空気が、変わるのを感じました」


 その言葉に、叶多は息を止めた。


「数値には出ない。だが、確かにある」


 佐伯は、自分に言い聞かせるように続ける。


「私は、あれを、これまで扱ってこなかった」


 初めての告白だった。手が汚れていない理由が、言葉になった瞬間でもある。


「扱えなかったのではありません」


 成瀬が、初めて口を開いた。


「扱う必要がない場所に、立っていた」


 佐伯は、ゆっくりと頷いた。


「問い返される側になると、違って見えますね」


 その言葉は、冗談でも、皮肉でもなかった。


 叶多は、その場で確信した。線引きは、すでに戻らないところまで揺れている。佐伯は、まだ立場を変えていない。だが、問いを受け取ってしまった以上、同じ場所には立てない。


 会議室を出るとき、佐伯は最後に言った。


「管理の言葉で、どこまで拾えるか。考えさせてください」


 それは約束ではない。だが、拒絶でもなかった。


 廊下に出た瞬間、叶多は大きく息を吐いた。成瀬が、隣で小さく笑う。


「ようやく、同じ高さで話せたな」


「ええ」


 叶多は答えた。


「問い返された瞬間に、立場が変わりました」


 判断する側と、問われる側。その境界線は、もう一方的には引けない。管理も、現場も、同じ問いの前に立たされている。


 そして叶多は知っていた。ここから先は、誰かを論破する話ではない。どの問いを、残すかの話になる。

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