第36話 揺らいだ線引き
翌朝、評価室の空気は、前日とは明らかに違っていた。
誰かが何かを言ったわけではない。
通達も、注意も、届いていない。
それでも、全員が感じている。
線引きが、わずかに揺らいだ。
佐伯が現場に立ったという事実は、評価室の中で静かに共有されていた。話題にする者はいないが、視線の端で互いに確認している。昨日の出来事が、単なる見学ではなかったことを。
午前中の評価は、いつも通りに始まった。
対象は高齢の女性。基準上は問題ないが、疲労が出やすい。これまでなら、途中で止めるか、続けるか、個々の判断に委ねられてきたケースだ。
歩行開始から数分。
女性は、少しだけ歩幅を狭めた。
叶多は、迷った。
昨日なら、即座に声をかけていたかもしれない。
だが今日は、様子を見る。
その判断が、正しいかどうかは分からない。
ただ、自分の判断を、誰がどう見るのかを、初めて意識していた。
成瀬が、視線だけで問いかけてくる。
止めるか。
叶多は、首を横に振った。
数歩。
呼吸が、わずかに乱れる。
「一度、ここで休みましょう」
今度は、迷いなく声をかけた。
女性は、ほっとしたように椅子に腰掛ける。
「ありがとうございます」
その言葉に、叶多は胸の奥が少し軽くなる。
評価後の共有が始まった。
今日は、佐伯はいない。
それでも、昨日までとは違う。
「最初、止めるか迷いました」
叶多は、はっきりと言った。
「でも、数歩だけ様子を見ました。その結果、今のタイミングで止める判断に至りました」
場が、静かに聞いている。
「その判断、どう思いますか」
成瀬が、問いを投げる。
木下が、少し考えてから言った。
「昨日までなら、最初の迷いは言わなかったと思います」
「どうして」
「整理される前に、消えそうだったから」
誰かが、頷いた。
迷いが、共有されている。
結論だけではなく、線引きの揺れそのものが。
その午後、佐伯からメールが届いた。
――昨日の見学について、少しお話ししたいことがあります。
短い文面だった。
指示ではない。
呼び出しでもない。
叶多は、画面を見つめ、深く息を吸った。
揺らいだ線引きは、
どちら側にも転びうる。
佐伯が、自分の線を引き直すのか。
それとも、より強くなぞり直すのか。
会議室に向かう廊下で、成瀬が言った。
「怖いか」
「はい」
「それでいい」
成瀬は、短く続ける。
「線が揺れた証拠だ」
叶多は、頷いた。
正しさの境界は、
揺らいだ瞬間にしか、見えない。
その揺れを、
誰がどう扱うのか。
次の一歩は、
現場ではなく、
管理側から示されようとしていた。
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