第33話 置き去りの証拠

 証拠は、最初からそこにあった。


 ただし、誰もそれを「証拠」として扱ってこなかっただけだと、叶多は後になって気づく。


 評価後の共有が立ち会い付きになってから、現場では奇妙な現象が起きていた。公式記録は整然としている。事故も起きていない。数値も安定している。だが、評価を終えた直後の空気だけが、毎回どこか重たいまま残る。


 言い切られなかった言葉。

 整理される前に宙に浮いた違和感。

 それらは、誰の端末にも残らない。


 だが、完全に消えているわけでもなかった。


 その日の午後、叶多は病棟で看護師と立ち話をしていた。評価対象だった女性の様子を確認するためだ。


「歩いたあと、少し疲れたみたいでした」


「どんな感じでしたか」


「説明しにくいんですけど……」


 看護師は言葉を探し、廊下の先を一瞬見た。


「気が抜けた、っていうか。終わったと思った途端に、どっと来た感じです」


 叶多の胸が、静かに鳴った。


 同じ表現。

 木下が言った言葉と、ほとんど同じだ。


「評価中は、平気そうでしたか」


「はい。むしろ、頑張ってました」


 頑張る。

 その言葉が、引っかかる。


 評価後、叶多はノートを開いた。

 正式な記録とは別の、私的なメモだ。


 評価終了直後に緊張が解ける

 安心した瞬間に疲労が顕在化


 医学的には説明できる。自律神経の切り替え、集中解除後の反動。だが、それは「評価が終わった」と本人が認識した後に起きる。


 つまり――

 止めた判断そのものが、次の変化を引き起こしている可能性がある。


 その考えに至った瞬間、叶多はペンを止めた。


 止めることは、安全だ。

 だが、止め方によっては、別の負荷を生む。


 これは、これまで誰も正面から扱ってこなかった領域だった。事故か否か、安全か否か、その二択の外にある問題。だからこそ、整理の対象から外されてきた。


 夕方、評価室で成瀬と話した。


「看護側も、同じ違和感を持ってます」


「だろうな」


「これ、ログに残せません」


「残らないな」


「でも、消えていません」


 成瀬は、少しだけ口元を緩めた。


「それが、置き去りにされてきた証拠だ」


 証拠。

 叶多は、その言葉を噛みしめる。


「でも、形がありません」


「形がないから、残っている」


 成瀬は続けた。


「数値や文章にできるものは、整理され、消される。だが、人の中に残る違和感は、処理できない」


 その夜、叶多は木下にも話を聞いた。


「正直、評価が終わった瞬間が一番怖いときある」


「怖い?」


「うん。張ってた糸が切れる感じ」


 木下は、笑いながら言ったが、目は真剣だった。


「だから、あのとき……立ち上がろうとした瞬間、嫌な予感がした」


 それは、誰にも記録されなかった予感だ。

 だが、同じ予感を持った人間が、複数いる。


 叶多は、ノートのページをめくった。

 患者。

 療法士。

 看護師。


 立場の違う人間が、同じ場所で、同じ瞬間に、似た違和感を抱いている。


 これは、偶然ではない。


 しかも、この違和感は、管理の立ち会いが入るほど、口にされなくなっていく。置き去りにされ、拾われず、整理されないまま積もっていく。


 証拠は、消されたのではない。

 誰も拾わなかった場所に、置き去りにされている。


 叶多は、ノートを閉じた。


 次にすべきことが、はっきり見えてきた。


 この証拠を、

 「整理される前」に、

 しかも「公式な場」で、

 消せない形にする。


 それができれば、

 正しさの盾は、初めて揺らぐ。


 廊下の照明が、一つずつ落ちていく。

 叶多は、静かに立ち上がった。


 置き去りにされた証拠は、

 拾われるのを待っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る