第34話 手が汚れていない人
佐伯は、いつも清潔だった。
身だしなみの話ではない。言葉も、態度も、判断も。彼の周囲には、血や汗の匂いが漂っていない。医療の現場にいながら、どこか無菌室のような空気を纏っている。
それが、彼の強さだった。
医療安全管理部の会議室で、定例の報告が行われていた。叶多は、成瀬に同行する形で出席している。名目は「評価運用に関する意見交換」。議題は穏やかで、資料も整っている。
「最近、評価後の状態変化について、いくつかご意見が出ています」
佐伯が口火を切る。
「ただし、いずれも事故や有害事象には至っていません」
事故ではない。
有害事象ではない。
その二つの言葉が、境界線を引く。
「現場としては、どうお考えですか」
佐伯の視線が、成瀬に向けられる。
「評価の終わり方が、患者の負荷に影響する可能性がある」
成瀬は、簡潔に答えた。
「評価を止める判断自体は正しい。ただ、その後の変化を、もう少し丁寧に見たい」
「具体的には」
「安心した瞬間の崩れです」
会議室が、わずかにざわつく。
だが、すぐに静まる。
「それは、主観的な感覚では」
佐伯が、穏やかに返す。
「数値や客観指標で確認できるのであれば、検討します」
「現時点では、数値化できていません」
「でしたら」
佐伯は、間を置いた。
「安全管理として扱うのは難しい」
正論だった。
誰も反論できない。
叶多は、そのやり取りを聞きながら、ある違和感を覚えていた。
佐伯は、何も間違ったことを言っていない。
判断を誤ったわけでもない。
誰かに無理をさせたわけでもない。
それでも、現場に残るものがある。
会議が終わり、廊下に出たとき、叶多は思わず口にした。
「佐伯さんは、現場にいませんよね」
成瀬は、歩みを止めずに答えた。
「立場が違う」
「評価も、介助も、患者の隣に立つこともない」
「だから、手が汚れない」
成瀬の言葉は、淡々としていた。
手が汚れない。
それは、責め言葉ではない。
だが、叶多には、はっきりと見えてきた。
佐伯は、事故を起こしていない。
判断を誤っていない。
誰かを直接、危険に晒していない。
だからこそ、強い。
彼は常に「結果が出る前」に動き、
「問題が形になる前」に整理する。
そのやり方では、
手は決して汚れない。
だが、置き去りにされるものがある。
評価室に戻ると、木下が声をかけてきた。
「会議、どうでした」
「きれいでした」
「……きれい?」
「全部、正しい」
木下は、苦笑した。
「それが一番、厄介ですよね」
叶多は、頷いた。
「佐伯さんは、悪役じゃない」
「え?」
「少なくとも、自分ではそう思っていない」
だからこそ、対立は難しい。
正義と正義が、正面からぶつかる。
その夜、叶多はノートを見返した。
違和感。
予感。
言葉にしきれない変化。
それらは、すべて現場でしか生まれない。
手が汚れる場所でしか、見えない。
佐伯は、その場所に立たない。
立たなくても、仕事はできる。
だが――
立たないからこそ、見えないものがある。
叶多は、静かに決意した。
この先、
誰かの手が汚れる瞬間を、
見せる必要がある。
それも、
佐伯自身に。
そうでなければ、
この溝は、永遠に埋まらない。
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