第32話 沈黙の共有

 立ち会いがあるだけで、言葉は変わる。


 評価後の共有の場に、佐伯が立つようになってから、空気は明らかに硬くなっていた。誰も黙れとは言われていない。だが、何を言っても「整理」されることが分かっている場で、人は自然と角の取れた言葉を選ぶ。


「特に問題はありませんでした」


 そんな無難な報告が増えた。

 違和感は、喉元まで上がっても飲み込まれる。


 叶多は、その変化を見逃さなかった。

 沈黙が増えたのではない。

 沈黙が、共有されなくなったのだ。


 午後の評価。対象は軽度の片麻痺が残る女性。基準上は問題ないが、歩行中に右肩がわずかに上がる癖がある。転倒リスクではない。だが、疲労が溜まると姿勢が崩れる兆候でもあった。


 折り返し地点。

 女性は一度、立ち止まる。


「大丈夫ですか」


 木下が確認する。


「ええ、大丈夫」


 声ははっきりしている。

 数値も、問題ない。


 叶多は、止めなかった。

 止める理由を、まだ言語化できなかったからだ。


 評価は無事に終わった。

 事故は起きない。


 共有の時間が始まる。

 佐伯が、少し離れた位置で聞いている。


「何か、気づいた点は」


 叶多が促す。


 一瞬の沈黙。

 誰かが、時計を見る。


 若手の一人が、控えめに言った。


「歩行中、右肩が少し……」


「補足します」


 佐伯が、柔らかく割り込む。


「肩の挙上は、代償動作として一般的です。今回の評価では、問題にはならないですね」


 場が静まる。

 否定されたわけではない。

 ただ、結論が先に置かれた。


「……はい」


 若手は、それ以上続けなかった。


 成瀬が、ゆっくりと口を開いた。


「代償動作自体は問題にならない。ただ」


 佐伯が視線を向ける。


「疲労時の変化を、どう見るかは別だ」


 短い沈黙。

 佐伯は頷いた。


「それは、次回の評価で確認できます」


 次回。

 つまり、今回は残さない。


 共有は終わった。

 何も間違っていない。

 だが、何かが欠けている。


 評価室を出たあと、木下が小声で言った。


「今の、言わなくてよかったのかな」


「何を」


「肩のこと。違和感、あったよな」


 叶多は、足を止めた。


「言っていい」


「でも、ああなる」


「だから、言う」


 木下は、困ったように笑った。


「強いな」


「強くない」


 叶多は首を振る。


「消えない形にしたいだけだ」


 その夜、叶多はノートを開き、今日の共有を書き留めた。

 公式記録ではない。

 だが、記憶を束ねるための言葉だ。


 肩の挙上。

 疲労時の姿勢変化。

 その場で整理された結論。


 沈黙は、事実ではない。

 沈黙は、処理の結果だ。


 翌日、評価後の共有は続いた。

 佐伯の立ち会いも続く。


 それでも、少しずつ変化が起きていた。

 短い言葉。

 断定しない表現。


「気になった」

「引っかかった」


 結論ではない言葉が、残る。


 佐伯は、それらをすべて拾い上げない。

 拾えない。


 なぜなら、それは整理できないからだ。


 沈黙は、管理できる。

 だが、曖昧な共有は、管理しきれない。


 その事実が、場の空気をわずかに変え始めていた。


 叶多は、確信する。


 消されない判断は、

 大きな声では残らない。


 小さな言葉が、

 繰り返し、

 同じ時間を共有した者の中に、静かに積もっていく。


 それが、沈黙の共有だった。

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