第31話 見えない手
見えない手は、強く押すことはしない。
そっと触れ、流れを少しだけ変える。誰かが気づいたときには、すでに元の位置には戻れなくなっている。叶多は、その感覚を日に日に強くしていた。
評価後の三分間共有は、続いている。だが、以前より言葉が短くなった。迷いを語る声が減り、無難な観察だけが残る。誰も止めろとは言われていない。それでも、空気が変わる。
正しさの盾は、沈黙を選ばせる。
ある日の午後、叶多は看護師長から声をかけられた。
「最近、評価の進め方が変わったって聞いたわ」
「はい。途中で休止を入れることが増えています」
「それ自体はいいと思う。ただね……」
師長は言葉を選ぶ。
「医療安全から、少し問い合わせが来てるの」
「問い合わせ、ですか」
「評価の判断が、個人に寄りすぎていないかって」
個人。
その言葉に、叶多は胸がざわつく。
「チームで共有しています」
「ええ。でも、書面に残らない共有は、外から見ると“属人化”に見えるのよ」
それは、否定ではなかった。
事実の指摘だった。
叶多は、その日のうちに成瀬を訪ねた。
「現場の外から、どう見えていると思いますか」
「危うい」
成瀬は即答した。
「いい方向に向かっているが、説明が追いついていない」
「佐伯さんの言っていることも、一理ある」
「ある」
成瀬は頷く。
「だから、見えない手が動く」
見えない手。
それは、個人の意思ではない。
「組織は、自分を守るために動く」
成瀬は続ける。
「誰かが突出すると、均そうとする」
均す。
それは、善でも悪でもない。
その夜、叶多は病棟で、あの患者の経過を確認した。状態は安定し、原因も特定されつつある。薬剤の影響と、自律神経の急激な変化。止めた判断が、結果的に転倒を防いだ可能性も高い。
だが、その「可能性」は、どこにも残らない。
翌日、医療安全管理部から正式な通知が出た。
――評価後の口頭共有は、医療安全管理部立ち会いのもとで行うこと。
立ち会い。
それは、管理であり、監視でもある。
木下が、紙を握りしめた。
「これ、もう自由に話せないよな」
「話せる」
叶多は言った。
「ただし、見られる」
それが意味するものは、重い。
誰が、何を言ったか。
誰が、止めたか。
その情報は、整理され、要約され、やがて消える。
見えない手は、もう隠れていない。
堂々と、現場に入ってきた。
評価後の共有に、佐伯が立ち会った。
彼はメモを取らない。
ただ、聞いている。
「折り返し前で、視線が逸れました」
若手の声が、少し震える。
「呼吸が浅くなった」
言葉は出るが、続かない。
佐伯は、穏やかに頷く。
「ありがとうございます。では、記録に反映できる点を整理します」
整理。
また、その言葉だ。
共有が終わると、佐伯は去っていく。
場に残るのは、言い切れなかった違和感だけ。
成瀬が、ぽつりと呟いた。
「見えない手が、見えるようになったな」
「ええ」
叶多は答える。
「次は、どうしますか」
成瀬は、少し考えてから言った。
「見せる」
「何を」
「消せないものを」
叶多は、その意味を理解するまで、少し時間がかかった。
消せないもの。
それは、記録でも、ログでもない。
結果だ。
見えない手が触れられない領域。
それを、意図的に現場に突きつける。
状況は、次の段階へ進んでいた。
判断を消す力と、
消えない現実が、
正面からぶつかろうとしていた。
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