第30話 正しさの盾

 佐伯の介入は、静かで、正確だった。


 評価後の三分間共有が始まってから一週間ほど経った頃、リハビリテーション部に一通の通達が回った。医療安全管理部名義の文書で、件名は「評価後の情報共有に関する留意点」。


 文面は丁寧で、非難の言葉は一切ない。


 ――評価後の口頭共有については、誤解や責任の所在不明確化を防ぐため、正式な議事録を伴わない形での実施は慎重に検討されたい。


 慎重に検討。

 禁止ではない。

 だが、圧は十分だった。


 木下が紙を見つめ、ぽつりと言った。


「これ、やめろってことだよな」


「そうとも取れる」


 成瀬は淡々と答える。


「だが、正式に禁止はしていない」


 叶多は、文書の最後の一文に目を留めていた。


 ――医療安全は、現場の善意に依存するものではなく、組織として担保されるべきである。


 善意に依存するな。

 その言葉は、正しい。


 だからこそ、盾になる。


 評価前ミーティングで、若手の一人が不安そうに言った。


「このまま続けて、大丈夫なんですか」


「何が」


「責任、です。もし何かあったら……」


 その問いに、すぐ答えられる者はいなかった。


 叶多は、一歩前に出る。


「責任は、共有します」


「それ、書いて残らないですよね」


「残りません」


 ざわり、と空気が揺れる。


「でも、消されません」


 その言葉は、強がりに聞こえたかもしれない。

 だが、叶多は本心だった。


 正しさの盾は、強い。

 佐伯は、それを自覚して使っている。


 安全。

 責任。

 再現性。


 どれも、反論しにくい言葉だ。


 午後、佐伯が評価室を訪れた。視察という名目で、数分間、何も言わずに立っている。視線は穏やかだが、空気が張り詰める。


 評価が終わり、例の三分間共有が始まる。


 一瞬の逡巡。

 誰かが、時計を見る。


 叶多は、口を開いた。


「折り返し前で、患者の視線が逸れました」


 沈黙の中で、言葉が落ちる。


「呼吸が浅くなった」


「声をかけるか迷った」


 短い言葉が、続く。


 佐伯は、腕を組み、黙って聞いている。

 止めない。

 だが、記録も取らない。


 共有が終わると、佐伯は穏やかに言った。


「今の内容は、正式な記録には残りませんね」


「はい」


「それで、いいのですか」


 問いは、柔らかい。

 だが、刃は隠れている。


「いいと思っています」


 叶多は、目を逸らさずに答えた。


「今は」


 佐伯は、少しだけ微笑んだ。


「若さですね」


 その一言が、評価室に残る。


 去り際、佐伯は成瀬に向かって言った。


「成瀬さん、あなたはどう思いますか」


 成瀬は、一拍置いて答えた。


「判断を消さないやり方だと思います」


 佐伯は、何も言わずに去った。


 その夜、叶多は自宅で考え込んだ。

 正しさの盾は、こちらを傷つけない。

 ただ、動きを封じる。


 このままでは、いずれ共有は萎む。

 誰かが怖くなる。


 盾に対抗するには、剣は使えない。

 同じ素材で、別の形を作るしかない。


 正しさには、正しさで対抗する。


 叶多は、ノートに新しい項目を書いた。


 「正式な場で、判断を語る方法」


 次の一手は、

 盾を壊すことではない。


 盾の内側に、

 判断を持ち込むことだ。

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