第29話 誰が記録を持つのか
記録は、紙やデータの話ではなかった。
それに気づいたのは、叶多が「観察メモ」を続けて三日目のことだった。ノートには、評価の流れ、数値に出ない違和感、患者の言葉、場の空気が書き留められている。どれも、公式記録には載せられない内容だ。
だが、そのメモは確実に現場の判断を支えていた。
評価前、木下が小声で言う。
「昨日の患者、夕方に疲れやすいって書いてたよな」
「うん。今日は休止早めに入れる」
それだけで、評価の質が変わる。
止める判断が、事前に共有されている。
成瀬も、評価後に短く確認する。
「さっきの視線、メモに残したか」
「残しました」
言葉にすることで、違和感が消えない。
消されない。
だが、その変化は、静かに波紋を広げていた。
昼休み、若手の一人が声をかけてきた。
「橘さん、そのノート……見せてもらえますか」
一瞬、迷いがよぎる。
見せるということは、責任を広げることだ。
「見るだけなら」
叶多は、ページを開いた。
若手は、食い入るように目を走らせる。
「……こういうこと、書いていいんですね」
「公式じゃない」
「でも、現場では必要です」
その言葉に、叶多は頷いた。
必要だから、残す。
正しいかどうかより、今はそれが先だ。
その日の午後、久我が近づいてきた。
「……最近、現場がざわついている」
「はい」
「記録が二重化していると聞いた」
久我の声には、咎める色はなかった。
ただ、事実を確認している。
「公式記録と、非公式メモ」
「そうです」
「危険だな」
久我は、率直に言った。
「五年前と、逆の危険だ」
叶多は、静かに答える。
「だから、隠していません」
「……」
「誰が見てもいい。誰が書いてもいい」
久我は、しばらく黙り込んだ。
「佐伯は、黙っていないだろう」
「分かっています」
「それでもやるのか」
「やります」
久我は、深く息を吐いた。
「……俺は、昔、記録を減らした」
叶多は、視線を外さずに聞いた。
「守るつもりだった」
「はい」
「だが、結果的に、判断を奪った」
久我は、拳を握りしめる。
「今度は、逆だ。判断が溢れる」
「溢れてもいいと思います」
叶多は、はっきり言った。
「溢れた判断を、拾う仕組みを作ればいい」
久我は、ゆっくりと頷いた。
「……お前は、危うい」
「承知しています」
「だが」
久我は、小さく笑った。
「五年前に、俺が欲しかったのは、そういう危うさかもしれない」
その言葉は、肯定でも承認でもない。
だが、否定ではなかった。
夕方、医療安全管理部から連絡が入った。
「非公式記録の取り扱いについて、説明を求める」
来るべきものが、来た。
誰が記録を持つのか。
それは、権限の問題ではない。
判断を引き受ける覚悟を、誰が持つのかだ。
叶多はノートを閉じ、深く息を吸った。
次は、逃げられない。
記録は、ただの情報ではない。
それを誰が持つかで、力関係が決まる。
叶多は、医療安全管理部を出てから、その事実を強く意識するようになっていた。
評価室に戻ると、成瀬と木下が待っていた。
「どうだった」
成瀬の問いに、叶多は短く答える。
「鍵は開きませんでした」
「だろうな」
木下が、落ち着かない様子で腕を組む。
「じゃあ、もう記録は残せないってことか」
「公式には、な」
成瀬はそう言ってから、少し間を置いた。
「だが、公式だけが記録じゃない」
その言葉に、木下が顔を上げる。
「どういう意味ですか」
「評価の場には、必ず複数の目がある」
成瀬は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「誰が、どこで、何を見たか。それを一人が抱え込まなければ、消しきれない」
叶多は、その意味を噛みしめる。
判断を、個人の中に閉じ込めない。
だが、それは同時に、責任を分け合うことでもある。
「それ、危なくないですか」
木下が言った。
「もし問題が起きたら、全員が巻き込まれる」
「巻き込まれる、じゃない」
成瀬は、静かに否定する。
「最初から、全員が関わっている」
その言葉は、重かった。
評価は、チームで行われる。
止める判断も、続ける判断も、誰か一人のものではない。
だが、記録だけが、いつの間にか個人に帰属していた。
午後の評価前ミーティングで、叶多は口を開いた。
「今日から、評価後に三分だけ、口頭での振り返りを入れたいと思います」
場が静まる。
「記録じゃなくて、共有です」
視線が集まる。
久我はいない。
佐伯もいない。
「何を共有するんですか」
若手の一人が尋ねた。
「止めた理由。迷った理由。違和感」
ざわりと空気が動く。
「それ、記録に残らないですよね」
「残らない」
叶多は、はっきりと言った。
「だから、消せない」
誰かが、息を呑む音がした。
「三分でいい。評価のたびに、全員が聞く」
それは、小さな提案だった。
だが、現場の力関係を変える提案でもある。
「……やってみよう」
最初に賛同したのは、木下だった。
「どうせ、もう静かじゃいられないし」
苦笑交じりの言葉に、何人かが頷く。
その日の評価後、三分間の共有が行われた。
「折り返し前で、視線が泳いだ」
「呼吸が浅くなった」
「声をかけるか迷った」
短い言葉が、次々と出る。
否定も、結論もない。
だが、その場にいた全員が、同じ時間を思い出している。
成瀬が、最後に言った。
「今のが、判断だ」
その言葉に、叶多は胸が熱くなる。
数日後、佐伯から連絡が入った。
「最近、評価後の私的な集まりが増えていると聞きました」
私的。
その言葉に、警戒心が走る。
「共有です」
叶多は答えた。
「記録ではありません」
電話の向こうで、短い沈黙があった。
「それは、推奨できません」
「禁止ですか」
「……正式な場では、ありません」
つまり、止められない。
叶多は電話を切り、深く息を吸った。
記録は、端末の中だけにあるものではない。
人の中にあり、関係の中にある。
それを消すには、
全員の記憶を消さなければならない。
誰が記録を持つのか。
その問いに、現場は静かに答え始めていた。
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