第28話 鍵のかかった端末

 端末に鍵がかかっていることに気づいたのは、偶然だった。


 叶多は終業後、誰もいなくなった評価室で、例の患者のログをもう一度確認しようとしていた。公式記録には残らなかった数分。その空白を、せめて自分の記憶と照らし合わせて埋めたかった。


 端末を立ち上げ、個人IDでログインする。

 評価一覧が表示され、該当日のデータを選択する。


 ――アクセス権限がありません。


 一瞬、目を疑った。


 これまで自分が入力し、閲覧してきたデータだ。権限がないはずがない。再度ログアウトし、入り直す。結果は同じだった。


 叶多は、背もたれに身体を預け、天井を見上げた。

 鍵がかかっている。

 しかも、それは最初からではない。


 誰かが、後から権限を変更している。


 翌朝、成瀬にそのことを伝えた。


「評価室の端末、権限が変えられてます」


「……いつから」


「昨日の夕方以降です」


 成瀬は短く頷き、言った。


「医療安全管理部だな」


「佐伯さん、ですか」


「断定はできない。だが、できるのはそこだけだ」


 成瀬は、廊下の奥を見た。

 そこには、管理部のフロアへ続く通路がある。


「直接行くか」


「……行きます」


 医療安全管理部の執務室は、リハ室とは違う静けさがあった。電話の音も少なく、紙の擦れる音だけが淡々と流れている。効率と秩序が支配する空間だ。


 佐伯は、自席で資料を読んでいた。


「橘さん、どうしました」


「評価ログの閲覧権限が、外されています」


 佐伯は驚いた様子もなく、画面を見せるよう促した。


「確認します」


 数回キーボードを叩き、佐伯は小さく頷いた。


「一時的な措置です」


「理由は」


「記録の扱いが、現場で混乱を招いている」


 その言葉は、丁寧だった。

 だが、拒絶でもある。


「判断の過程を、非公式に残していると聞きました」


 叶多の胸が強く脈打つ。


「……どこから」


「情報は、自然に集まります」


 佐伯は穏やかに答えた。


「非公式メモは、責任の所在を曖昧にします。もし問題が起きたとき、誰が説明するのですか」


「私です」


 即答だった。


「私が、説明します」


 佐伯は、少しだけ眉を動かした。


「若いですね」


 その一言に、叶多は言葉を失いかけた。


「責任とは、引き受ける覚悟だけでは足りません」


「……」


「引き受けさせない仕組みも、必要です」


 佐伯は、静かに続ける。


「だから、判断の過程は、公式な形でしか残さない」


「公式な形で残せないものは」


「残さない」


 その線引きは、明確だった。


 叶多は、深く息を吸った。


「それでは、同じことが繰り返されます」


「繰り返されません」


 佐伯は、即答する。


「結果が安全であれば」


 また、その言葉だ。


 結果。

 結果だけが、評価される。


「五年前も、そうでしたか」


 叶多は、静かに問いかけた。


 佐伯の指が、一瞬だけ止まった。

 だが、表情は崩れない。


「過去の事例は、現在の安全管理とは別です」


 それが、彼の答えだった。


 執務室を出ると、叶多の背中にじんわりと汗が滲んでいた。

 直接的な対立は、避けられた。

 だが、溝ははっきりした。


 鍵は、かかったままだ。


 判断の過程は、守られない。

 ならば、別の場所に残すしかない。


 成瀬が、低い声で言った。


「正面からは無理だな」


「ええ」


「だが、現場には現場の記憶がある」


 叶多は、静かに頷いた。


 電子記録が消されるなら、

 人の中に残す。


 だが、それは危うい賭けだ。

 記憶は曖昧で、揺らぎやすい。


 それでも、今はそれしかない。


 鍵のかかった端末を前に、

 叶多は初めて、明確な覚悟を持った。


 この戦いは、記録の形式を巡る戦いではない。

 誰の判断が、この現場に存在していいのかを巡る戦いだ。

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