第27話 再現できない違和感

 再現できない、という言葉ほど、現場の人間を不安にさせるものはない。


 評価や治療は、再現性を前提に成り立っている。誰がやっても、ある程度同じ結果に辿り着く。そのために基準があり、設計があり、記録がある。再現できない違和感は、その前提を静かに壊す。


 叶多は、あの患者の評価場面を何度も頭の中で再生していた。


 止めた理由は明確だった。

 視線の揺れ。

 呼吸の浅さ。

 集中の途切れ。


 すべて、基準の範囲内で説明できる。実際、止める判断自体は正しかった。成瀬も、木下も、それを否定していない。


 問題は、その後だ。


 休止に入ったあと、何が起きたのか。

 なぜ、あのタイミングで状態が急変したのか。


 数値を追っても、決定的な異常はない。

 薬剤の変更もない。

 環境要因も特別ではない。


 再現できない。


 叶多は、その言葉をノートに書き、二重線で囲んだ。

 再現できない違和感は、単なる偶然として処理されやすい。医療安全の立場から見れば、なおさらだ。


 午後、成瀬と評価室で向き合った。


「同じ条件で、もう一度評価したら、どうなると思う」


「……同じ結果にはならない」


 叶多は即答した。


「患者が違う。体調も違う。時間も違う」


「だろうな」


 成瀬は、床のテープを見下ろす。


「だが、違和感だけは、似た形で出る」


 その言葉に、叶多は頷いた。

 違和感は、数値よりも早く現れる。

 だが、それは共有しにくい。


「佐伯は、そこを切り捨てている」


「切り捨てている、というより」


 成瀬は言葉を探す。


「評価の外に追い出している」


 評価の外。

 つまり、記録できないものとして。


「違和感を扱うには、設計とは別の層が必要だ」


「別の層……」


「人だ」


 成瀬は、はっきりと言った。


「判断の過程を、人の言葉として残す」


 それは、危険な提案でもあった。

 言葉は解釈される。

 解釈は、責任を生む。


 だからこそ、消されてきた。


 その日の夕方、叶多は木下を誘ってコーヒーを飲んだ。


「昨日の評価、どう思った」


「正直に言う?」


「頼む」


 木下は、しばらく考えてから口を開いた。


「止めたのは正しかった。でも……」


「でも」


「空気が変わった瞬間があった」


 叶多のペンが止まる。


「どんな」


「患者が座ったあと。安心した顔をした直後」


「……」


「その瞬間、力が抜けすぎた気がした」


 それは、記録に残らない言葉だった。

 だが、叶多の中で、確かに何かが繋がった。


 安心。

 緊張の解除。

 自律神経の急激な変化。


 理論としては説明できる。

 だが、証明はできない。


「それ、記録に残せると思うか」


「無理だろ」


 木下は苦笑した。


「そんなこと書いたら、怒られる」


 叶多は、静かに頷いた。

 それが現実だ。


 だが、違和感は存在する。

 再現できなくても、消えてはいない。


 夜、叶多は自宅でノートを開いた。

 評価の設計。

 数値。

 ログ。


 そして、その横に、別の欄を作る。


 観察メモ(非公式)


 数値にならないこと。

 言葉にしにくいこと。

 共有されにくい感覚。


 これを、どう守るか。


 佐伯の正義は、再現性を重んじる。

 だが、医療の現場には、再現できないものが確かにある。


 その存在を、どうやって証拠にするか。


 叶多は、次の一手を考え始めていた。

 記録を守る戦いは、

 記録できないものを、どう扱うかという戦いに変わりつつある。


 そして、その戦いは、

 必ず誰かの立場を脅かす。


 それでも、引き返すことはできない。

 消された判断を、もう一度、現場に取り戻すために。

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