第26話 安全管理の視線

 佐伯という人物は、現場から見れば「敵」には見えなかった。


 むしろ逆だ。彼はいつも穏やかで、衝突を避け、誰かを名指しで責めることがない。事故が起きたときも、声を荒げることはなく、淡々と事実を整理し、「再発防止」という言葉で場をまとめる。その姿勢は、多くの職員にとって安心材料だった。


 だからこそ、疑いにくい。


 翌日の午前中、医療安全管理部主催のミニカンファレンスが開かれた。名目は「最近の評価運用変更に伴う情報共有」。参加者は、リハビリテーション部の数名と看護師、事務職員。久我の姿はない。


 佐伯は、プロジェクターの前に立ち、柔らかな口調で話し始めた。


「最近、評価の途中で休止を入れるケースが増えていますね。これはとても良い取り組みだと思います」


 その言葉に、場の空気が和らぐ。

 否定されない。

 責められない。


「ただ一方で、記録の扱いには注意が必要です」


 スライドに、簡略化されたフローチャートが映し出される。


「途中で評価を止めた場合、その判断理由をどこまで詳細に残すか。これは、難しい問題です」


 佐伯は、あえて曖昧な言葉を選んでいる。


「詳細すぎる記録は、後から誤解を生むことがあります。『なぜ止めた』『なぜ続けなかった』という問いが、個人に向かう可能性がある」


 叶多は、その言い回しに既視感を覚えた。

 五年前の事故のときと、同じ匂いだ。


「医療安全の立場としては、結果が安全であれば、過程を簡潔にまとめることも一つの選択肢です」


 安全であれば。

 結果が良ければ。


 その前提が、いつの間にか共有されている。


 成瀬が、静かに手を挙げた。


「質問いいですか」


「どうぞ」


「判断の過程を残さなかった場合、次に同じ状況が起きたとき、どうやって再現性を担保するんですか」


 佐伯は、少し考える素振りを見せてから答えた。


「再現性は、設計と基準で担保します」


「設計が間違っていた場合は」


「そのときは、設計を見直します」


 論理は破綻していない。

 だが、どこか循環している。


 叶多は、胸の奥に小さな焦りを感じた。

 ここでは、正論しか語られない。

 正論だけで、人は黙ってしまう。


「橘さん」


 カンファレンス後、佐伯が声をかけてきた。


「最近、現場で頑張っているそうですね」


「……ありがとうございます」


「評価を止める判断は、勇気が要ります」


 その言葉は、本心からのようにも聞こえた。


「ただし」


 佐伯は、少しだけ声を落とす。


「勇気が、誰かを追い詰めないようにするのも、我々の仕事です」


 追い詰める。

 その言葉が、叶多の胸に引っかかる。


「記録は、盾にもなりますが、刃にもなります」


「だから、消すんですか」


 思わず口をついて出た言葉だった。


 佐伯は、わずかに目を見開いたが、すぐに穏やかな表情に戻った。


「消す、という言い方は正確ではありません」


「……」


「整理する、です」


 整理。

 あまりにも便利な言葉だ。


「現場を守るために、必要な整理もあります」


 佐伯はそう言い、軽く会釈して去っていった。


 叶多は、その背中を見送りながら確信する。


 この人は、悪意で動いていない。

 むしろ、自分なりの正義を持っている。


 だが、その正義は、

 判断する人間を見えなくする正義だ。


 安全管理の視線は、常に少し高い位置から現場を見下ろしている。全体を俯瞰し、個々の揺らぎを「ノイズ」として処理する。


 その視線の中では、

 止めた理由も、迷った時間も、

 すべて均されてしまう。


 叶多は、ノートを開いた。

 次に消されないためには、どうすればいい。


 記録を守るだけでは足りない。

 消せない形にする必要がある。


 第二部の戦いは、はっきりした。


 敵は声を荒げない。

 否定もしない。

 ただ、静かに判断を消していく。


 それに抗うには、

 同じ高さからでは足りない。


 現場の視線を、

 もう一段、引き上げなければならない。

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