第25話 空白のログ

 ログの空白は、偶然では説明できなかった。


 叶多は医療安全管理部の端末室の前で、一度足を止めた。ガラス越しに見える室内は静かで、整然としている。掲示板には「安全文化の醸成」「再発防止」「透明性の確保」といった標語が並び、どれも正しい言葉だった。


 正しすぎる、と叶多は思う。


 端末室に入ると、若い事務職員が顔を上げた。


「橘さん、どうしました?」


「昨日の評価ログを確認したいんですが。バックアップも含めて」


 職員は慣れた手つきで操作を始める。

 数分後、首を傾げた。


「……この時間帯、記録が生成されていませんね」


「削除ではなく?」


「ええ。そもそも、保存されていない扱いです」


 保存されていない。

 つまり、システム上は「何も起きていない」。


「自動記録は、現場端末からの入力がトリガーです。入力がなければ……」


「入力はしました」


 叶多は即答した。

 成瀬も、木下も見ている。


「止めた判断も、休止も、全て」


 職員は困ったように笑う。


「そう言われましても、ログ上は……」


 そのとき、背後から声がした。


「その部分、私が確認します」


 振り返ると、医療安全管理部の主任・佐伯が立っていた。

 白衣ではない。事務用の落ち着いた服装。

 表情は穏やかで、声も低い。


「現場の混乱を招くといけませんから」


 その一言に、叶多の背中が冷たくなる。


 混乱を招く。

 それは、五年前にも聞いた言葉だった。


「佐伯さん、ログが欠けている理由は」


「一時的な同期エラーでしょう」


 即答だった。


「現場端末とサーバーの通信は、完璧ではありません」


「でも、該当時間だけが欠けています」


「偶然です」


 佐伯は、淡々と続ける。


「評価自体は中止され、事故は起きていない。患者さんも転倒していない。結果として、問題はありません」


 結果として。


 叶多は、その言葉を噛みしめる。


「結果が問題なければ、判断の過程は残さなくていいんですか」


 佐伯は、わずかに眉を動かした。


「記録は、責任の所在を明確にするためのものです」


「判断を共有するためでもあります」


「共有は、現場でなされている」


 正論だった。

 どこにも破綻はない。


「記録が曖昧だと、逆に誰かを傷つけることもあります」


 佐伯の言葉は、穏やかだが鋭い。


「五年前のように」


 その瞬間、叶多は確信した。


 この人は知っている。

 事故そのものではなく、事故の処理の仕方を。


「今回も、同じですか」


 叶多は、静かに問う。


「同じとは?」


「判断の過程を残さないことで、誰も責められない状態を作る」


 佐伯は、少しだけ視線を逸らした。


「医療安全とは、そういう仕事です」


 その言葉は、否定でも肯定でもなかった。

 ただの事実として語られている。


 叶多は、胸の奥で何かが冷えていくのを感じた。


 久我のときとは違う。

 これは恐怖からの防衛ではない。


 権限を持つ者が、意図的に“判断を消す”行為だ。


 端末室を出ると、成瀬が待っていた。


「どうだった」


「消されてはいません」


「……」


「最初から、存在しなかったことにされています」


 成瀬は、短く息を吐いた。


「やっぱりな」


「久我さんじゃありません」


「分かってる」


 成瀬の目が、鋭くなる。


「これは、安全管理の問題だ」


 叶多は、廊下を歩きながら思う。


 止める判断を共有しても、

 記録が消されるなら意味がない。


 第二部の敵は、

 設計でも、善意でも、未熟さでもない。


 **正しさを装った“消去”**だ。


 そして、それは

 もっとも反論しづらい顔をして、

 現場のすぐ隣に立っている。

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