消された判断
第23話 似ている患者
その患者を見たとき、叶多は胸の奥がひやりとした。
カルテの年齢。既往。ADL。回復曲線。退院前評価のタイミング。どれも「問題ない」と言えるはずの数字が並んでいる。だが、視線がある一点に吸い寄せられる。麻痺側ではない。歩行速度でもない。看護記録の端に書かれた、たった一文だ。
――「夕方になると、急に疲れたと言い出す」
似ている。
五年前の事故記録の中の患者と。
そして、最近自分が見てきた二件の事故と。
患者は七十代前半の男性で、入室時から表情が柔らかかった。無理を押してくるタイプではない。むしろ遠慮がちで、こちらをうかがうような目をする。
「今日は評価って聞きました」
患者は穏やかに言う。
「ええ。確認です。途中で休みますし、無理はしません」
叶多がそう答えると、患者は安心したように笑った。昔の自分なら、この笑顔に安堵していたはずだ。だが今は違う。笑顔は、評価の安全を保証しない。むしろ危険が潜むときほど、人は平静を装う。
評価室に入ると、成瀬がすでに隅に立っていた。黙っているが、視線がある。木下も少し離れた位置にいる。久我はいない。副主任を外れた今、評価設計の中心には立っていない。
叶多は、短く深呼吸した。
今回は違う。
止める基準は共有されている。
判断は分散されている。
善意の声かけも抑制されている。
五年前とも、第一部の事故とも、条件が違う。
だから、事故は起きない。
起きないはずだ。
評価は淡々と始まった。立ち上がりは安定している。歩行開始も問題ない。歩幅は揃い、体幹の揺れも許容範囲。叶多は基準表を頭の中でなぞりながら、患者の表情と呼吸を追う。
折り返し地点の手前で、患者の視線が一瞬だけ泳いだ。
それは、数字に出ない変化だった。
だが叶多には見えた。
「ここで一度、休みましょう」
叶多は止めた。迷いはなかった。成瀬が小さく頷く。木下は何も言わない。患者も、素直に椅子に腰掛けた。
「すみません、ちょっと息が」
「大丈夫です。ここで切りましょう」
予定どおりの中断。基準どおりの判断。
事故は起きない。
叶多は、その瞬間、確かに「救えた」と思った。
だが。
休止から数分後、患者が立ち上がろうとしたとき、顔色が変わった。笑顔が消え、唇がわずかに紫がかる。
「……あれ」
患者が小さく呟く。
木下が近づく。
成瀬が視線を鋭くする。
患者はふらついた。叶多は即座に体幹を支え、椅子に戻した。転倒はしない。骨折もない。ここまでは、完璧に防げている。
なのに。
患者の視線が、焦点を失った。
呼吸が浅くなる。
手が冷たい。
叶多の背筋が凍る。これは疲労ではない。評価の問題ですらない。別の何かが起きている。
「血圧測ります」
看護師を呼ぶ声が飛ぶ。
酸素が準備される。
医師のPHSが鳴る。
患者はそのまま病棟へ戻され、評価は中止になった。
転倒はない。
事故はない。
だが、退院は白紙になった。
叶多は評価室に立ち尽くした。床のテープが、やけに鮮明に見える。ここで止めた。確かに止めた。間違いなく止めた。判断は正しかった。なのに、結果は最悪に近い。
成瀬が小さく言った。
「……止めたのに、だな」
その声は、確認ではなく、驚きだった。
木下が唇を噛む。
「俺、何も言ってない。押してない」
「分かってる」
叶多は短く答えた。
善意の共犯ではない。
設計の暴走でもない。
なのに、現実はねじれている。
その日の夜、病棟から連絡が入った。患者は一過性の意識変容を起こしていた。原因は精査中。循環器か、神経か、薬剤か。いずれにしても、退院評価どころではない。
叶多は、ノートを開いた。
止めた理由。
止めたタイミング。
患者の反応。
すべて書ける。書けるはずだ。
だが、最後の数分が、妙に曖昧だった。
止めた。
椅子に座った。
数分休んだ。
立ち上がろうとして、変化が出た。
――本当に、それだけか。
叶多は自分の記憶の中に、奇妙な空白があることに気づく。
何かが抜けている。
何かを見落としたのではなく、最初から「そこ」にピントが合っていない。
そして、もっと不気味なことに気づく。
評価の最中、端末で自動記録していたタイムスタンプが、数分だけ飛んでいた。
止めた瞬間から、患者の変化まで。
そこが、記録上で欠けている。
叶多は、背中に汗が滲むのを感じた。
止めたはずの瞬間が、消えている。
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