第22話 判断のそばで

 伴走とは、前を引っ張ることではない。


 叶多は、その言葉の意味を、ようやく実感として理解していた。


 評価室の朝は、相変わらず忙しい。患者が入り、車いすが並び、ストレッチャーの音が響く。五年前と比べて、何かが劇的に変わったわけではない。事故がゼロになったわけでもないし、判断に迷う場面が消えたわけでもない。


 それでも、現場には以前とは違う空気が流れている。


「今日は、ここまでにします」


 叶多がそう告げると、患者は少し考え、そして頷いた。


「分かりました。無理しない方がいいですね」


 その言葉に、叶多は小さく笑う。

 止める判断が、患者にとっても自然な選択になりつつある。


 評価が終わり、記録をまとめる。

 理由を書く。

 判断を書く。


 それは、正解を主張するためではない。

 誰かが次に続けるための足場を残すためだ。


 昼休み、成瀬がコーヒーを片手に隣に立った。


「最近、評価が静かだな」


「はい」


「いい意味で、だ」


 成瀬は、窓の外を見ながら続ける。


「前は、結果を出す音がうるさかった」


「結果を出す音」


「カウント、励まし、正論。全部な」


 叶多は、少し考えてから答えた。


「今は、途中の音が聞こえます」


 成瀬は、短く笑った。


「伴走だな」


 その言葉に、叶多は胸の奥が温かくなるのを感じた。


 夕方、久我の姿を見かけた。

 若手に囲まれ、ホワイトボードの前に立っている。


「設計は、万能じゃない」


 久我は、以前なら口にしなかった言葉を言っていた。


「だが、判断を一人で引き受けないための道具にはなる」


 若手たちは、真剣に頷いている。

 久我の表情は、どこか軽い。


 過去は消えない。

 だが、過去に縛られ続ける必要もない。


 叶多は、評価室の端に立ち、床に引かれたテープを見つめた。

 ここで、人は立ち上がる。

 ここで、迷う。

 ここで、止まる。


 そのすべてに、理由がある。

 そして、その理由を、一緒に引き受ける人がいる。


 理学療法士は、患者の人生を代わりに歩くことはできない。

 だが、隣を歩くことはできる。


 前に出すぎず、

 遅れすぎず、

 転びそうな瞬間に、声を出す。


「ここで、一度休みましょう」


 その一言が、誰かの未来を守ることがある。


 叶多は、スクラブの袖を整え、次の患者を迎えに行った。

 新人だった頃のような硬さは、もうない。


 不安が消えたわけではない。

 だが、不安を一人で抱えることもなくなった。


 伴走者とは、

 正しさを示す人ではない。

 一緒に迷い、

 一緒に止まり、

 一緒に進む人だ。


 評価室に、新しい一日が始まる。

 その横を、叶多は静かに歩き出した。


 誰かの人生の、少し後ろを。

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