第20話 崩れたあと
論理が崩れたあと、人はすぐに別の答えを見つけられるわけではない。
久我の告白から数日が経っても、現場は大きくは変わらなかった。評価は続き、患者は来て、リハ室はいつも通りの音を立てて動いている。事故は起きていない。それだけ見れば、すべてはうまくいっているようにも見えた。
だが、空気は確実に違っていた。
久我は以前よりも評価室に長く留まるようになった。ただし、指示は出さない。設計について語ることもない。黙って見て、記録を読み、必要最低限の確認だけを行う。
それは、後退ではなかった。
立ち位置を探している姿だった。
叶多は、その変化を意識的に追わなかった。今は、誰かを変えようとするより、自分の判断を積み重ねるべきだと感じていた。評価を止める理由を言語化し、記録に残し、共有する。その作業は地味で、評価もされにくい。
だが、確実に現場を支えている。
ある日の午後、木下が評価後に声をかけてきた。
「最近、患者さんの反応が変わったと思わないか」
「どういう意味で」
「無理しなくていいって、最初から分かってる顔をする」
木下は、少し不思議そうに言った。
「前は、評価って言うだけで緊張してたのに」
叶多は、静かに頷いた。
「止める可能性が、最初から見えてるからだと思う」
「止める、か」
木下は、少し考え込む。
「俺、前は“できる”って言わないと、患者が不安になると思ってた」
「今は」
「今は……言わなくてもいい気がする」
それは、小さな変化だった。
だが、善意の向きが変わり始めている。
夕方、成瀬と廊下ですれ違った。
「現場、落ち着いてきたな」
「はい」
「久我さんも、少しずつ変わってる」
成瀬は、歩みを止めずに続ける。
「過去を全部掘り返さなくても、現場は変えられる」
「でも……」
「でも、過去は消えない」
その言葉に、叶多は足を止めた。
「久我さんが、どう選ぶかだ」
成瀬は、そう言って去っていった。
その夜、叶多は一人、評価室に残った。床のテープは、もう何度も見てきた景色だ。だが、今日は違って見える。
ここで、止める。
ここで、待つ。
ここで、続ける。
判断は、孤独ではない。
誰かと共有され、引き受けられる。
それだけで、評価の意味は変わる。
久我の論理は崩れた。
だが、その跡地には、何もないわけではない。
正しさを一人で背負わないための空間が、ようやく生まれ始めている。
その空間が、この現場に根づくかどうかは分からない。
だが、少なくとも今は、事故は起きていない。
それが偶然なのか、必然なのか。
その問いに、まだ答えはない。
だが、叶多は知っている。
答えを急ぐこと自体が、かつての論理だった。
評価室の灯りを消しながら、叶多は思う。
崩れたあとの現場は、
静かで、不安定で、
それでも、前よりも人の気配がある。
その気配こそが、
次に進むための、唯一の手がかりだった。
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