第19話 告白
久我が口を開いたのは、予想よりも遅かった。
新しい評価基準が定着してから二週間が過ぎ、現場は一見、落ち着きを取り戻していた。事故は起きていない。患者の不満も、大きくは表面化していない。効率は落ちたが、破綻はしていなかった。
それでも、久我の様子は変わっていた。
以前のように、即断即決で結論を出さない。評価後のカンファレンスでも、発言が減り、資料に視線を落とす時間が増えた。誰よりも理論を語ってきた人間が、理論を語らなくなる。その変化は、現場の誰よりも叶多にとって重かった。
その日の終業後、叶多が評価室を片づけていると、背後から声がした。
「橘」
振り返ると、久我が立っていた。
スクラブの袖口を軽く整え、いつも通りの無表情だが、目の奥に疲労が滲んでいる。
「少し、時間をもらえるか」
「……はい」
二人は、評価室の隅にある小さなデスクに向かい合って座った。照明は半分だけ落とされ、外の光も入らない。昼間とは違う、閉じた空間だ。
久我は、しばらく何も言わなかった。
沈黙が、長く続く。
叶多は、急かさなかった。
この沈黙が、久我にとって必要な時間だと、直感的に分かっていた。
「五年前の事故の記録を、見ただろう」
久我が、ようやく口を開いた。
「……はい」
「成瀬から、聞いたか」
「一部は」
久我は、小さく息を吐いた。
「あの事故は、私が設計した評価で起きた」
それは、否定でも弁解でもなかった。
事実の提示だった。
「Aは、優秀だった。今のお前より、よほど落ち着いていた」
久我は、机の一点を見つめ続ける。
「事故が起きた瞬間、私もそこにいた。だが、止めなかった」
叶多の喉が、わずかに鳴った。
「止める理由が、なかった」
久我は、静かに続ける。
「設計は正しかった。数値も、環境も、問題はなかった。だから、止められなかった」
それは、これまで久我が語ってきた論理と、寸分違わない。
ただし今回は、他人事ではなかった。
「事故の後、Aは自分を責めた」
久我の声が、少し低くなる。
「私が設計した評価だと言っても、聞かなかった。自分が未熟だったと、言い続けた」
「……」
「だから、私は言った。設計に問題はなかった、と」
その言葉が、胸に重く落ちる。
「Aを守るためだった」
久我は、初めて視線を上げ、叶多を見た。
「少なくとも、そのつもりだった」
守る。
その言葉は、優しくもあり、残酷でもある。
「だが、記録を簡略化し、カンファレンスを形だけにしたのは、私だ」
久我は、淡々と告白する。
「誰か一人に責任が集中しないようにした。事故を、構造の問題にした」
「それで……」
「Aは現場にいられなくなった」
沈黙が、二人の間に落ちた。
久我は、言葉を選ぶように続ける。
「それ以来、私は設計を固めた。誰がやっても同じ結果になるように。止める判断が入り込まないように」
叶多は、静かに頷いた。
すべてが、繋がった。
「事故が起きても、誰も壊れないように」
「……はい」
「だが」
久我は、一拍置く。
「お前のやり方で、事故が起きなかった」
その言葉には、悔しさよりも困惑が滲んでいた。
「私の論理では、説明できない」
久我は、視線を落とす。
「それが、怖い」
その一言で、久我はただの悪役ではなくなった。
恐れている人間だった。
「正しさを、失うのが」
叶多は、ゆっくりと息を吸った。
「久我さんは、正しさを失っていません」
「……」
「ただ、正しさを一人で引き受けてきただけです」
久我は、何も言わなかった。
「止める判断を、共有できる形にすれば、誰も一人で壊れません」
叶多は、静かに続ける。
「Aさんも、久我さんも」
久我の肩が、わずかに落ちた。
告白は、終わった。
だが、結論はまだ出ていない。
これを公にするか。
過去を掘り起こすか。
それとも、このまま構造だけを変えるか。
選択は、久我にも委ねられている。
評価室の照明が、自動で落ちた。
暗闇の中で、久我は立ち上がる。
「……考えさせてくれ」
それは、逃げではなかった。
初めて、自分の論理の外に立った人間の言葉だった。
久我が去った後、叶多は一人、椅子に残った。
告白は、終わりではない。
始まりだ。
ここから先は、
誰が正しいかではなく、
誰が一緒に引き受けるかが問われる。
その問いに、現場はまだ答えを持っていない。
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