第18話 崩れる論理

 久我の論理が崩れ始めたのは、事故が起きたからではなかった。


 事故が起きなかったからだ。


 叶多が提案した新しい評価基準は、その後一週間、淡々と運用された。評価は、確かに以前より時間がかかる。途中で休止が入り、患者は戸惑い、スケジュールは押す。現場の効率は、目に見えて落ちた。


 だが、事故は一件も起きなかった。


 数字は、変わらない。

 FIMも、歩行速度も、退院率も、大きな差はない。


 変わったのは、評価の場に流れる空気だった。


 評価前、木下は言葉を選ぶようになった。


「今日は、様子を見ながらですね」


 それだけで、患者の表情が少し落ち着く。

 前に進ませる言葉ではなく、立ち止まる余白を残す言葉。


 成瀬は、以前よりも積極的に評価室に顔を出すようになった。立ち位置は変わらないが、視線の動きが明確だ。誰が、どの瞬間に判断を引き受けているのかを見ている。


 久我は、黙っていた。


 評価後のフィードバックも、事故検証も、淡々と行う。だが、以前のように「設計が正しい」と言い切ることはなくなった。


 ある日のカンファレンスで、久我は資料を見つめたまま、珍しく口を閉ざしていた。


「……事故は、起きていないな」


 誰に向けた言葉でもない。

 だが、部屋の全員が耳を澄ませる。


「評価が慎重になっただけだ」


 誰かがそう言うと、久我は首を振った。


「慎重になったのではない。判断が分散された」


 その言葉に、叶多は息を呑んだ。


 久我は、分かっている。

 だが、認めきれていない。


 会議後、久我は叶多を呼び止めた。


「橘」


「はい」


「このやり方は、効率が悪い」


「承知しています」


「全員が同じ判断に辿り着けない」


「それでも、安全です」


 久我は、しばらく黙り込んだ。

 その沈黙は、評価ではない。

 迷いだった。


「……事故が起きなければ、評価は正しい」


 久我は、低い声で言う。


「それが、私の信念だ」


「事故が起きなければ、です」


 叶多は、言葉を重ねた。


「でも、事故が起きなかった理由を、これまで説明できていませんでした」


 久我の視線が、初めて揺れた。


「設計が正しかったからだ」


「設計が、誰かの判断を縛っていたからです」


 久我は、何も言わなかった。


 論理が崩れる瞬間は、派手ではない。

 叫びも、否定もない。


 ただ、説明がつかなくなる。


 その夜、久我は一人、評価室に残っていた。叶多は、廊下の角からその姿を見かけ、足を止めた。


 久我は、床に引かれたテープを見つめている。

 五年前も、同じ場所に立っていたのだろう。


 事故は、起きていない。

 それでも、胸の奥がざわつく。


 久我の論理は、事故を減らすために作られた。

 だが、事故が起きない理由を、説明できなくなった瞬間、その論理は力を失う。


 叶多は、声をかけなかった。

 今は、言葉が邪魔になる。


 論理が崩れるとき、人は次に何を選ぶのか。

 正義を守るか。

 過去を守るか。


 あるいは、すべてを語るか。


 その選択が、もうすぐ迫っていることを、

 叶多は肌で感じていた。

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