第15話 対立の予兆

 対立は、宣言から始まるわけではない。


 最初に変わるのは、空気だ。評価の場で交わされる視線の数が増え、言葉が減る。誰もが、何かを感じ取りながら、それを口にしない。


 翌週の評価スケジュールは、これまでと同じように久我が組んでいた。立ち上がりから歩行、折り返し。負荷の上げ方も、いつも通りだ。叶多はその表を見つめ、胸の奥で小さく息を吐いた。


 変えるなら、ここだ。


 評価前のミーティングで、叶多は手を挙げた。


「今日の三件目ですが、評価の途中で休止を入れたいと思います」


 一瞬、室内が静まり返る。

 久我の視線が、ゆっくりとこちらに向いた。


「理由は」


「前半二件での疲労蓄積が見込まれます。患者背景的にも、連続評価は――」


「数字は?」


「基準内です」


 久我は、わずかに顎を引いた。


「基準内なら、評価は成立する」


「成立します。ただし、安全とは限りません」


 言い切った自分に、叶多は少し驚いた。

 だが、引き下がらなかった。


「安全は、結果が出てから判断される」


 久我の声は、低く、静かだった。


「事故が起きなければ、問題はない」


「事故が起きてからでは、遅いです」


 空気が、はっきりと変わった。

 若手の視線が、二人の間を行き来する。


 久我は、しばらく黙っていた。

 その沈黙は、怒りではない。

 評価だ。


「……分かった。今日は、お前の判断でやれ」


 そう言い、視線を外した。


 評価は、叶多の提案通り、途中で休止を入れた。

 患者は、少し戸惑いながらも頷いた。


「もう少し行けそうでしたけど」


「今日は、ここまでです」


 事故は起きなかった。

 数字も、問題ない。


 だが、評価後の久我の表情は、硬かった。


 終業後、久我は叶多を呼び止めた。


「橘」


「はい」


「最近、評価を止める判断が増えている」


「……はい」


「理由を説明できるなら、それでもいい。だが」


 久我は一拍置く。


「評価は、個人の感覚で揺らすものじゃない」


「感覚ではありません」


「では、何だ」


 叶多は、言葉を探した。

 違和感。

 流れ。

 空気。


 どれも、久我の論理の前では弱い。


「……現場で見た事実です」


 久我は、はっきりと眉をひそめた。


「事実は、記録に残る」


「残らない事実もあります」


 その瞬間、久我の目に、初めて感情が宿った。


「評価は、全員が同じ結論に辿り着くべきだ」


「全員が、同じものを見ているとは限りません」


 沈黙が落ちる。

 久我は、ゆっくりと息を吐いた。


「……お前は、現場を混乱させる」


 その言葉は、静かだったが、重かった。


 その夜、叶多は自宅でノートを開いた。

 評価を止めた理由。

 止めなかった理由。


 久我の論理は、崩れていない。

 だが、そこに乗り続ければ、また同じ流れが生まれる。


 対立は、もう始まっている。

 声を荒げる必要はない。


 評価の一つ一つが、

 久我の正義と、自分の選択を、少しずつ切り分けていく。


 どちらが正しいかは、

 今はまだ、誰にも分からない。


 ただ一つ確かなのは、

 この先、どちらかが折れなければならないということだった。

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