第14話 善意の共犯

 事故は、悪意だけでは起きない。


 そのことを、叶多はようやく言葉として理解し始めていた。久我の設計は正しい。木下の声かけも、患者を思ってのものだ。自分自身も、評価を成立させようとして動いている。


 誰も、間違ったことはしていない。


 だからこそ、事故が起きたとき、その責任は宙に浮く。


 午後の評価室。

 叶多は、次の患者を迎え入れながら、木下の動きを注意深く観察していた。


「今日は調子良さそうですね」


 木下は、いつもと変わらぬ調子で声をかける。

 患者は少し照れたように笑い、頷いた。


「昨日より楽です」


「それなら、無理しない範囲でいきましょう」


 言葉を選んでいる。

 露骨な励ましではない。

 だが、その一言で、患者の背筋がわずかに伸びた。


 評価が始まる。

 立ち上がり、問題なし。

 歩行開始、安定している。


 叶多は、あえて評価の進行を少し緩めた。

 一歩ごとの確認。

 呼吸の間。


 その変化に、木下は気づいたようだった。


「慎重だね」


「疲労が見える」


「でも、本人は――」


 木下は言いかけて、言葉を飲み込んだ。

 叶多の視線を感じ取ったのだろう。


 評価は、無事に終わった。

 事故は起きない。


 だが、叶多の胸には、別の感情が残った。


 ――木下は、止めなかった。


 止める理由が、まだ共有されていない。

 だから、彼は善意のまま、流れに乗る。


 休憩室で、叶多は木下に向き合った。


「木下、評価のときの声かけだけど」


「ん?」


「事故が起きた評価、全部、同じ言葉があった」


 木下は、一瞬きょとんとした顔をした。


「同じ?」


「できる。大丈夫。もう少し」


 木下は、苦笑する。


「それ、普通じゃないか」


「普通だから、止まらない」


 叶多は、静かに続けた。


「久我さんの設計は、止めない流れを作ってる。その中で、その言葉は、最後の一押しになる」


 木下は、すぐには返事をしなかった。

 コーヒーを一口飲み、視線を落とす。


「……じゃあ、何も言うなってことか」


「違う」


「患者の気持ちは、どうなる」


 その問いは、正しい。

 そして、重い。


「患者の気持ちを尊重することと、背中を押すことは違う」


 叶多は、言葉を選びながら答えた。


「押すなら、止める覚悟も必要だ」


 木下は、しばらく黙っていた。

 やがて、ぽつりと漏らす。


「俺は、事故を起こしたくないだけだ」


「俺もだ」


「だったら……」


「だったら、なおさらだ」


 善意は、止めにくい。

 正論は、疑いにくい。


 だから、共犯になる。


 誰か一人が悪いわけじゃない。

 だが、誰も無関係ではない。


 その日の終業後、叶多は成瀬に報告した。


「事故は、善意で完成している」


 成瀬は、静かに頷く。


「気づいたな」


「止めなかった人間が、共犯になる」


「そして」


 成瀬は視線を遠くに向けた。


「一番厄介なのは、その共犯関係が、誰にも自覚されていないことだ」


 評価室の灯りが、順に落ちていく。

 叶多は、その暗がりの中で思う。


 久我の正義。

 木下の善意。

 自分の未熟さ。


 それらが絡み合い、事故は形を取る。


 ならば、壊すべきは誰か一人ではない。

 流れそのものだ。


 だが、その流れに逆らえば、必ず摩擦が生まれる。


 叶多は、その覚悟を胸の奥で確かめた。

 ここから先は、もう戻れない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る