第12話 隠されたカンファレンス
カンファレンスの記録は、存在していないことになっていた。
叶多がそれに気づいたのは、過去の事故に関する資料を再度洗い直していたときだった。通常、転倒事故が発生すれば、リハビリテーション部だけでなく、医師、看護師、医療安全管理部を交えたカンファレンスが開かれる。その内容は、簡潔であっても議事録として残る。
だが、五年前の事故には、それがない。
事故報告書。
簡略化された評価記録。
そして、そこで終わっている。
不自然だった。
叶多は画面を閉じ、しばらく椅子に身を沈めた。記録が残っていないのではない。残されなかったのだ。そう考えると、これまで点として見えていた事象が、ゆっくりと線を結び始める。
その日の夕方、成瀬を捕まえた。
「五年前の事故、カンファレンスは開かれなかったんですか」
成瀬は、一瞬だけ視線を泳がせた。
そして、小さく息を吐く。
「正確には、開かれた」
「……正確には?」
「正式な記録として、残らなかった」
その言葉は、静かだが重かった。
「医療安全の名目で集まった。だが、議事録は共有されていない」
「誰が仕切ったんですか」
成瀬は、答えを分かっているという顔をした。
「久我さんだ」
叶多は、拳を握りしめた。
怒りではない。
理解に近い感情だった。
「久我さんは、何を話したんですか」
「事故の構造だ。評価の流れ、声かけ、立ち位置。すべて分析した」
「それなら、なぜ残らなかった」
「結論が、曖昧だったからだ」
成瀬は、廊下の窓から外を見た。
夕暮れの光が、ガラスに反射している。
「Aだけの責任とは言えなかった。だが、久我さんだけの責任とも言えなかった」
「だから……」
「だから、事故は“処理”された」
その言葉に、叶多は静かに頷いた。
誰も悪くない。
誰も裁けない。
その状況で、人は記録を残さない。
夜、叶多は自宅でノートを開いた。
五年前の事故。
二つの最近の事故。
共通するのは、曖昧な責任の所在だ。
久我は、意図的に誰かを傷つけているわけではない。
むしろ逆だ。
傷つけないために、設計を完璧にしている。
だが、完璧な設計は、人の判断を奪う。
評価の場で、誰かが止めようとしたとき、その行為は「感情的」「根拠がない」と退けられる。そうして、流れは維持される。
事故が起きるまで。
翌日のカンファレンスで、久我はいつも通り冷静だった。
資料を示し、事故の再発防止策を述べる。
「注意喚起の徹底。評価前の体調確認」
誰も反論しない。
反論できる材料が、表に出ていない。
叶多は、久我の横顔を見つめた。
その表情に、迷いはない。
久我は、事故を隠しているわけではない。
事故を“語れない形”にしている。
それが、最も安全だと信じて。
カンファレンスが終わり、久我が席を立つ。
その背中を見ながら、叶多は思った。
隠されたのは、事故ではない。
判断の過程だ。
そして、その過程を知っている者は、極端に少ない。
成瀬。
そして、久我自身。
叶多は、ようやく理解し始めていた。
これは、単なる事故の連鎖ではない。
沈黙によって維持されてきた構造だ。
それを壊すには、事故を告発するだけでは足りない。
判断の場に、言葉を取り戻さなければならない。
その覚悟が、自分にあるのか。
叶多はノートを閉じ、深く息を吸った。
物語は、すでに引き返せない場所まで来ていた。
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