第11話 過去の記録
過去の記録に辿り着くまでに、叶多は二日かかった。
意図して探せば、事故記録はすぐに見つかる。だが、彼が求めていたのは「事故」ではなかった。事故に至るまでの評価の流れ、その周辺に残された、わずかな歪みだった。
リハビリテーション部のサーバーには、年単位で評価データが保管されている。アクセス権限は限定的だが、教育目的での閲覧は許可されていた。叶多は、終業後の静かな時間を選び、端末の前に座る。
検索条件を、慎重に絞る。
転倒。
退院前評価。
回復期後半。
画面に表示された一覧は、思ったより少なかった。その中の一件に、叶多は目を留める。日付は五年前。患者背景は、これまでの事故とよく似ている。
担当療法士の名前を見て、息を止めた。
――A。
聞き覚えがある。
だが、現場でその名前を聞くことは、ほとんどない。
評価記録を開く。
数値は良好。
評価手順も、問題ない。
だが、事故報告書の末尾に、短い一文が添えられていた。
「評価設計に問題はなく、偶発的な転倒と判断する」
その文言は、あまりにも見覚えがあった。
叶多は、指先で画面をなぞる。
記録の簡潔さが、逆に不自然だった。
通常、事故が起きれば、検証は詳細になる。評価前後の状態、声かけ、立ち位置。だが、この記録には、それらがほとんど残っていない。まるで、必要最低限だけを書き、早々に終わらせたようだ。
さらに気づく。
評価設計者の欄。
そこに記された名前は、久我だった。
胸の奥で、何かが静かに崩れる音がした。
Aという療法士は、現在この病院にいない。異動か、退職か。いずれにしても、現場で語られない存在だ。叶多は、成瀬の顔を思い浮かべる。
翌日、休憩時間を見計らい、成瀬に声をかけた。
「成瀬さん、少しお聞きしたいことが」
二人は、人気のない廊下の端に立った。
「五年前の事故の記録、見ました」
成瀬の表情が、わずかに変わる。
否定もしない。
驚きもしない。
「……あれか」
「Aさんの件です」
成瀬は、視線を落とした。
「Aは、優秀だった。真面目で、理論も分かっていた」
「事故の責任は、Aさんだったんですか」
「記録上は、な」
成瀬は一拍置き、続ける。
「だが、現場の全員がそう思っていたわけじゃない」
叶多は、喉が鳴るのを感じた。
「久我さんが、設計していた」
「ああ」
「それでも、久我さんは責任を問われなかった」
「問われなかったんじゃない。問われなかった形に、された」
成瀬の言葉は、淡々としていた。
感情を排したその口調が、かえって重い。
「Aは、その後どうなったんですか」
「異動だ。表向きは」
「……表向きは」
「しばらくして、辞めた」
沈黙が落ちる。
五年前の事故は、終わったこととして扱われている。
だが、終わっていない。
「久我さんは、Aを庇ったんですか」
成瀬は、すぐには答えなかった。
「庇った、と言えば聞こえはいい。だが、実際は……」
「実際は」
「事故を“処理”した」
その言葉に、叶多は息を呑んだ。
「誰も傷つかない形で、な」
成瀬はそう言い、視線を遠くに向けた。
「それ以来だ。久我さんの評価設計が、変わったのは」
叶多は、これまでの事故の場面を思い返す。
完璧な設計。
止めない流れ。
事故は、起きてもいい。
ただし、誰か一人が壊れない形で。
その思想が、久我の中で根を張っている。
資料室を出ると、夕方の光が廊下を染めていた。
過去は、確かにそこにある。
記録として、残っている。
だが、それを「見ていた者」は、ほとんどいない。
叶多は、歩きながら思う。
事故は、偶然ではない。
だが、誰かの悪意だけで起きているわけでもない。
過去の記録は、静かに語っていた。
正しさが、人を追い詰めることがあると。
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