第10話 見ていなかった者

 翌週、叶多は評価スケジュール表を見つめながら、違和感の正体に少しだけ近づいている自分を自覚していた。


 事故が起きた評価。

 起きなかった評価。

 その差は、技術でも、数値でもない。


 誰が、その場を見ていたか。


 評価室の隅に立つ成瀬の姿が、脳裏に浮かぶ。彼は常に半歩引いた位置にいる。患者ではなく、評価者を見る。だが、事故が起きた場面で、成瀬は決して声を出していない。


 ――見ていた。だが、関与していなかった。


 その事実が、叶多の思考を一段深い場所へ押し下げた。


 午後の評価前、久我が短く指示を出す。


「今日は、二件続けて評価に入る。橘、主導だ」


「……はい」


 評価対象は、七十代後半の男性。回復は順調で、数値も安定している。前回の評価では問題なしとされ、退院日も内定していた。


 評価が始まる。

 立ち上がり、歩行開始。

 流れは、これまでと同じだ。


 叶多は、意識的に自分の足位置を確認した。距離、角度、逃げ道。止める準備は整っている。だが、準備が整っていることと、止める決断ができるかどうかは別だ。


 患者は、歩行の途中で息を整えた。


「もう少しで終わりですね」


 その言葉は、誰に向けたものでもない。

 だが、その場の空気を一歩、前に進める力を持っていた。


 叶多は、口を開きかけて閉じる。

 止める理由を、まだ言語化できない。


 久我は、見ている。

 何も言わない。


 成瀬は、見ていない。

 評価室にはいなかった。


 その事実に気づいた瞬間、叶多の中で何かが繋がった。


 事故が起きた評価。

 成瀬が不在。

 事故が起きなかった評価。

 成瀬が、どこかで見ている。


 それは偶然かもしれない。

 だが、偶然にしては、揃いすぎている。


「止めます」


 叶多は、そう言った。


 患者の歩行は、まだ安定していた。

 止める決定的な理由は、ない。


 久我の視線が、鋭く叶多に向く。


「理由は」


「……疲労の兆候があります」


「数値は?」


「問題ありません」


 久我は一瞬、沈黙した。

 その沈黙の中で、評価の流れが初めて止まった。


「……分かった。今日はここまでだ」


 評価は終了した。

 事故は起きなかった。


 だが、久我の表情には、わずかな苛立ちが浮かんでいた。

 それは、評価結果に対するものではない。


 設計が、崩されたことへの反応だった。


 評価後、久我は叶多を呼び止めた。


「橘、なぜ止めた」


「違和感がありました」


「違和感は、理由にならない」


「……はい」


「評価は、誰が見ても同じ結果になるべきだ」


 久我の言葉は、正しい。

 だが、叶多は初めて、その正しさに息苦しさを覚えた。


「評価に、個人の感覚を入れるな」


 久我はそう言い、去っていった。


 叶多は、その背中を見送りながら思う。


 事故は、誰かが“見ていなかった”ときに起きている。

 だが、それは視線の問題ではない。


 止める責任を、誰も引き受けなかったときに起きている。


 成瀬が見ていたのは、患者ではない。

 評価の場に立つ人間たちの関係だ。


 そして、自分はようやく、その関係の中に立ち始めた。


 違和感は、偶然ではない。

 見ていなかった者が、確かに存在する。


 それが誰なのか。

 そして、なぜ見なかったのか。


 叶多は、その問いからもう逃げないと決めた。

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