第8話 上司の論理
久我の論理は、いつも明快だった。
朝のカンファレンスで、彼は事故報告の資料を淡々と示す。声に感情はなく、結論までの道筋は無駄がない。誰かを責めることも、過度に擁護することもない。ただ、事実を並べ、最短距離で判断を下す。
「評価手順に逸脱はない。環境要因も問題なし。再発防止策は、注意喚起の徹底で十分だ」
その場にいた誰も、反論しなかった。
反論できなかった、という方が正確かもしれない。
叶多は資料を見つめながら、胸の奥に溜まるものを感じていた。久我の言うことは、すべて正しい。理論も、経験も、現場の感覚も備わっている。自分が口を挟めば、それは感情論に聞こえるだろう。
会議後、久我は叶多を呼び止めた。
「橘、最近、評価で迷いが見える」
「……はい」
「迷うのは悪くない。だが、評価の場で迷いを見せるな」
久我は廊下を歩きながら、続ける。
「新人はな、失敗しないと学べない」
叶多は足を止めかけ、思い直して歩調を合わせた。
「失敗を恐れて止め続ければ、患者は前に進めない。結果として、別の形で事故が起きる」
「……事故が起きても、ですか」
「起きる」
久我は即答した。
「だから、評価は結果がすべてだ。事故が起きなければ、その評価は正しい」
その言葉は、冷たくもあり、現実的でもあった。
事故が起きなければ、誰も問題にしない。
数字が示すのは、いつも結果だ。
「橘、お前は優秀だ」
久我は立ち止まり、初めて真正面から叶多を見た。
「だが、優秀な新人ほど、現場を止めてしまう。自分が責任を負いたくないからだ」
胸が、わずかに締め付けられる。
「評価を任せているのは、信頼しているからだ。失敗を恐れるな」
久我はそう言い、去っていった。
午後のリハ室で、叶多は何度もその言葉を反芻した。
失敗を恐れるな。
事故が起きなければ、正しい。
評価の場では、確かにそうだ。
だが、事故が起きたとき、その評価は一瞬で「間違い」に変わる。
その境界線は、あまりにも曖昧だった。
夕方、成瀬が評価表を見ながら、ぽつりと言った。
「久我さんは、昔からああだ」
「昔から……?」
「理論が先に立つ。人は、後だ」
成瀬はそれ以上、語らなかった。
だが、その一言が、叶多の中で静かに響いた。
久我の論理は、完成している。
だからこそ、修正がきかない。
叶多は、評価表を閉じる。
事故は、誰か一人のミスで起きているわけではない。
論理と善意と未熟さが、同じ方向を向いたとき、
それは「正しい判断」として通過してしまう。
その事実に気づいてしまった自分が、
これから何を選ぶのか。
まだ答えは出ていない。
だが、久我の論理の内側で、何かが確実に歪み始めていた。
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