第7話 善意の同期
木下は、誰からも好かれるタイプだった。
リハビリテーション室に入ると、自然と患者の表情が和らぐ。声は大きすぎず、距離も近すぎない。冗談を交えながらも、必要なところは外さない。叶多とは対照的に、現場に馴染むのが早かった。
「今日の調子、どうです?」
木下は、評価前の患者にそう声をかける。
その一言で、場の空気が少し軽くなる。
「いい感じですよ。昨日より楽です」
「それなら、いけますね」
いける。
その言葉が、叶多の耳に残った。
評価が始まる前、木下は一歩下がり、叶多に小声で言う。
「無理そうだったら、止めればいい。でも、本人がやれるって言うなら、信じてあげないと」
「……うん」
叶多は曖昧に頷いた。
間違ってはいない。
患者の主体性を尊重する。それも、教科書に書いてある。
評価は問題なく終わった。
転倒は起きない。
数字も、所見も、良好。
「ほら、できたでしょ」
木下が笑うと、患者も笑った。
その光景は、正しい医療の一場面に見える。
休憩時間、叶多は木下と並んでベンチに座った。
自販機のコーヒーは、いつもより苦く感じる。
「木下、さ」
「ん?」
「評価の前に、患者に『できる』って言うのは……」
言いかけて、叶多は言葉を止めた。
責めるような響きになるのを避けたかった。
「言い過ぎ、かな」
木下は少し考え、肩をすくめた。
「どうだろう。でもさ、できるって思わなきゃ、やれないだろ」
「それは……そうだけど」
「リスクは、俺たちが見る。患者は、前だけ見ればいい」
善意だ。
疑いようのない、まっすぐな善意。
叶多は何も言えなかった。
午後、久我から声がかかる。
「橘、次の評価だ。木下、補助に入れ」
二人で評価に向かう。
患者は、前回事故を起こした女性と似た状態だった。回復段階も、年齢も、近い。
評価前、木下が患者に言う。
「前も、ここまではできてましたよ」
その言葉に、患者は安心したように頷いた。
評価が始まる。
叶多は、いつもより慎重に距離を取る。
木下は、斜め後方に位置し、いつでも支えられるよう構えている。
問題は起きなかった。
評価後、久我が短く言う。
「問題なし」
それで終わりだ。
叶多は、ふと気づく。
事故は、起きないときには本当に起きない。
だが、それが何を意味するのか、まだ分からない。
終業後、成瀬に呼び止められた。
「木下は、どうだ」
「いい療法士だと思います」
「そうだな。患者に好かれる」
成瀬は一拍置き、続ける。
「だが、好かれる言葉は、評価の刃になることがある」
その言葉に、叶多は息を呑んだ。
「誰も、悪気はない。だが、事故は、悪気がなくても起きる」
成瀬はそれだけ言い、去っていった。
叶多は一人、評価表を見つめる。
事故が起きた評価。
起きなかった評価。
違いは、わずかだ。
だが、そのわずかが、人を転ばせる。
善意は、止められない。
だからこそ、危険なのかもしれない。
叶多は、ノートを閉じた。
自分が見ているものは、事故そのものではない。
事故に至る「流れ」だ。
その流れの中で、
誰が、何を言い、
誰が、何を言わなかったのか。
その問いが、静かに形を持ち始めていた。
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