第6話 二つ目の事故

 二つ目の事故は、最初の事故よりも静かに起きた。


 午後三時過ぎ。リハビリテーション室の空気は、昼の熱を含んだまま緩んでいる。叶多はプラットフォームの脇でカルテを閉じ、患者に視線を戻した。七十代の女性。脳梗塞後、右片麻痺。歩行器使用での移動は自立している。


 数字は、良い。

 むしろ、退院基準を少し上回っている。


「今日は、確認だけです」


 そう伝えると、患者は安心したように微笑んだ。


「先生がそう言うなら、大丈夫ね」


 評価は、穏やかに始まった。立ち上がりは安定している。歩行器を前に出すタイミングも適切だ。右脚の支持は十分。体幹の揺れも、昨日より少ない。


 叶多は患者の左後方に位置を取り、距離を保つ。

 久我は、少し離れた場所から見ている。


 問題は、ない。

 少なくとも、そう見えた。


 折り返し地点を過ぎたとき、患者が息を整えるために、ほんの一瞬、歩行器を止めた。その間に、叶多は気づく。肩の高さが、わずかに下がっている。疲労の兆候だ。


「少し休みましょうか」


 声をかけると、患者は首を振った。


「大丈夫。もうすぐ終わるでしょう」


 その言葉に、叶多は一瞬、判断を迷った。

 止める理由は、ある。

 だが、数字も、手順も、問題はない。


 視線の端で、久我がこちらを見ている。

 何も言わない。


 ――評価は、結果がすべて。


 その言葉が、頭をよぎった。


「では、続けます」


 一歩。

 二歩。


 次の瞬間、患者の右脚がわずかに内側へ崩れた。支持が抜け、体幹が傾く。


「――っ」


 叶多は踏み出したが、距離があった。

 患者の身体が床に近づく。


 鈍い音。

 短い悲鳴。


 転倒だった。


 周囲が一斉に動く。看護師が駆け寄り、久我が冷静に指示を出す。患者は意識を保っているが、膝を強く打っていた。


 幸い、骨折は免れた。

 だが、退院は延期になった。


 事故後の検証は、前回とほとんど同じだった。

 評価手順に逸脱はない。

 環境要因にも問題はない。


「偶発的な転倒だ」


 久我は、そう結論づけた。


「同じ条件でも、起きないときは起きない」


 その言葉に、誰も反論しない。

 数字が、それを裏づけている。


 だが、叶多の中では、二つの事故が静かに重なっていた。


 どちらも、自分の担当だった。

 どちらも、久我が評価計画を立てていた。

 どちらも、決定的な瞬間に、誰も止めなかった。


 帰り際、ロッカールームで木下に声をかけられた。


「また、事故か」


「……そうだ」


「ついてないな。まあ、真面目すぎると、こういうこともあるよ」


 木下は軽く肩を叩き、続けた。


「でもさ、あの人たち、できると思うんだよ。本人も、周りも」


「それが、危ないこともある」


「分かってるよ。でも、信じないと前に進めないだろ」


 その言葉は、善意だった。

 疑う余地のない、正しい善意。


 叶多は、何も言い返せなかった。


 その夜、事故記録を並べて見比べる。

 一つ目と二つ目。

 微妙に違うが、本質は似ている。


 そして、気づく。


 事故が起きた場面には、共通して「誰かの言葉」があった。

 できる。

 大丈夫。

 もう少し。


 その言葉は、記録には残らない。

 だが、人を一歩、前に出させる力を持っている。


 叶多はノートを閉じ、深く息を吐いた。

 二つ目の事故は、偶然ではない。


 そう考え始めた自分を、

 同時に、どこかで恐れていた。

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