第5話 沈黙する評価者
成瀬は、評価の場で目立つタイプではない。
声を荒げることもなければ、患者を必要以上に励ますこともない。リハ室の片隅で、いつも半歩引いた位置に立ち、全体を見渡している。
叶多が最初にそれに気づいたのは、偶然だった。
午前の評価が一段落し、プラットフォームの横で記録をまとめていたとき、視線の端に成瀬の姿が入った。患者の歩行を見ながら、視線は足元ではなく、療法士の立ち位置や、声のかけ方に向いている。
患者ではなく、評価者を見ている。
そのことに、なぜか背筋が伸びた。
「成瀬さん」
声をかけると、成瀬は一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を戻した。
「何だ」
「さっきの評価、どうでしたか」
成瀬は少し考え、言葉を選ぶように口を開いた。
「評価としては、成立している」
「……それだけですか」
「それ以上を言うなら、記録には残らない」
叶多は、その意味を測りかねた。
「久我さんは、どう思われますか」
その名前を出した瞬間、成瀬の表情がわずかに硬くなった。
ほんの一瞬だが、確かに変化があった。
「久我さんは、正しい」
即答だった。
「判断も、手順も、理論も。非の打ちどころがない」
「……でも」
「だから厄介だ」
成瀬はそう言い、初めて叶多の目を見た。
「正しい人ほど、間違いに気づきにくい」
その言葉は、警告のようにも、独り言のようにも聞こえた。
午後、評価予定の患者が変更になった。
急な体調不良で、一人キャンセルが出たのだ。
「橘、この人を入れ替える」
久我が新しいカルテを差し出す。
七十代前半、男性。回復期後半。数値は安定している。
「評価、いけるか」
「……はい」
叶多は頷いた。
だが、心のどこかで、昨日の事故の感触が蘇る。
評価は淡々と進んだ。
患者は落ち着いており、歩行も安定している。
問題は、起きなかった。
評価終了後、久我は短く言った。
「問題なし。退院可能」
その判断に、誰も異議を唱えない。
数字も、所見も、すべてが揃っている。
だが、成瀬は何も言わなかった。
記録も、意見も、沈黙したままだった。
休憩時間、叶多は成瀬の隣に座った。
「さっきの評価、何か気づいた点は」
「……気づいたことはある」
「教えてもらえますか」
成瀬はしばらく黙り込み、やがて首を振った。
「今は、言えない」
「なぜですか」
「言えば、お前は安心する。だが、それはたぶん、正しくない」
叶多は言葉を失った。
「評価はな、誰か一人が正解を持つものじゃない」
成瀬は静かに続ける。
「だが、場の空気を支配する人間はいる。その人が何を言わないかで、結果は変わる」
沈黙が落ちる。
成瀬は、それ以上語らなかった。
その日の終業間際、叶多は一人、リハ室に残っていた。
照明が落とされ、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
評価表を見返す。
問題はない。
すべて、正しい。
それでも、胸の奥に小さな棘のような感覚が残る。
久我は、評価の場で多くを語らない。
成瀬は、評価の後で語らない。
その沈黙の意味が、まだ分からない。
ただ一つ確かなのは、
事故は、声の大きな場所では起きていない、ということだった。
静かな場所で、
誰もが正しいと思っている瞬間に、
それは起きる。
叶多は、評価表を閉じた。
この違和感から、もう目を逸らせないことだけは、はっきりしていた。
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