第4話 数字は嘘をつかない
事故から三日後、叶多はカンファレンスルームの隅で、ノートパソコンの画面を見つめていた。
画面に並ぶのは、評価記録と数値、そして事故報告書の写し。冷静に見れば、どこにも致命的な欠陥はない。
歩行速度。
支持性。
FIMの各項目。
どれも、基準を満たしている。
むしろ「良好」と言っていい数字だった。
数字は嘘をつかない。
少なくとも、そう教えられてきた。
「橘」
久我の声がして、叶多は顔を上げた。
久我は資料を一瞥し、淡々とした口調で言う。
「事故の検証だが、評価の流れは問題ない。再発防止策としては、注意喚起で十分だ」
「……はい」
「数字が示している。リスクは許容範囲だった」
その言葉に、叶多は小さく頷いた。
否定する材料がない。
否定すれば、自分の未熟さを認めることになる。
会議は短く終わった。
事故は「偶発的な転倒」として処理され、記録は棚に収められる。
リハ室に戻ると、いつもと変わらない光景が広がっていた。
平行棒の中で歩く患者。
エルゴメーターを漕ぐ高齢者。
療法士たちの掛け声。
何も変わっていない。
それが、かえって不安だった。
休憩室で、成瀬がコーヒーを飲んでいた。
叶多より数年先に現場に立っている中堅で、派手さはないが観察眼に定評がある。
「事故の件、聞いた」
「……はい」
「自分のせいだと思ってるか」
唐突な問いに、叶多は言葉を詰まらせた。
「分かりません。ただ……」
「納得できない、か」
成瀬はカップを置き、視線を落とした。
「評価ってのはな、誰が“何を見なかったか”が一番残る」
叶多は眉をひそめる。
「見なかった、ですか」
「数字に出ないものだ。患者の言葉、間の取り方、場の空気。全部、記録には残らない」
成瀬はそれ以上語らなかった。
だが、その沈黙が、叶多の胸に重く残った。
その日の午後、別の患者の評価に入った。
同じような年齢、同じような回復段階。
今度は転倒しなかった。
問題なく終わった。
数字も、評価も、良好。
それでも叶多は、安堵できなかった。
――なぜ、あの人だったのか。
帰宅後、ノートを開き、事故の流れを何度も書き出す。
立ち上がり。
歩行開始。
声かけ。
視線。
久我の立ち位置。
自分の距離。
その中で、一つだけ、言葉にできない違和感があった。
久我は、評価の「前」には多くを語る。
だが、評価の「最中」には、ほとんど何も言わない。
それは、信頼なのか。
それとも――。
叶多はノートを閉じ、天井を見上げた。
数字は嘘をつかない。
だが、数字が語らないものは、確かに存在する。
その存在に、気づいてしまった以上、
見なかったことにはできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます