第3話 一つ目の事故
事故は、予兆なく起きた。
午後のリハビリテーション室は、午前中よりも空気が重くなる。患者の疲労が表に出始め、療法士の集中力も微妙に削られていく時間帯だ。叶多はプラットフォームの横でカルテを確認しながら、次の評価対象の名前を指でなぞっていた。
六十八歳、女性。脳出血後、左片麻痺。回復は順調。退院前評価、担当は自分。
数字は問題ない。
FIMも、前回評価と比べて伸びている。
――問題はないはずだ。
そう思った瞬間に、久我の声が背後からかかった。
「橘、この患者は予定どおり歩行評価に入れ」
「はい」
短いやり取りだったが、叶多は一瞬だけ違和感を覚えた。
予定どおり、という言い方。
まるで結果が決まっているかのような響きが、耳に残った。
患者は明るい性格だった。リハ室に入ってくるなり、周囲に軽く会釈をし、歩行器に手をかける。
「今日で終わりですかね」
「確認次第ですね」
叶多は、意識的に曖昧な言い方を選んだ。
期待を煽らないため。
それもまた、教わってきた「正しさ」だった。
評価は順調に進んだ。立ち上がりは安定し、歩行開始も問題ない。左脚の振り出しに若干の遅れはあるが、代償動作の範囲内だ。
久我は少し離れた位置で、腕を組んで見ている。
視線は鋭いが、口を挟む気配はない。
五メートル。
折り返し。
患者は、ここで少し笑った。
「前より、楽ですね」
その言葉に、叶多は返事をしなかった。
代わりに、足元に視線を落とす。
次の一歩で、何かが変わった。
左脚が前に出た瞬間、体幹がわずかに傾く。
補正しようとした右脚が遅れ、支持が抜けた。
叶多の身体が反応するより早く、患者の身体が傾いた。
「――っ」
短い声。
鈍い音。
患者は、その場に崩れ落ちた。
時間が一瞬、引き延ばされたように感じた。
周囲の音が遠のき、視界が狭まる。
「大丈夫ですか!」
叶多は膝をつき、患者の名前を呼ぶ。
意識はある。返事もある。
だが、左股関節を押さえた手が、微かに震えていた。
久我がすぐに近づき、冷静な声で指示を出す。
「動かさない。看護師を呼べ」
数分後、患者はストレッチャーで運ばれていった。
リハ室には、何事もなかったかのように日常が戻る。
だが、叶多の中では何かが確実に崩れていた。
事故報告書は、事実だけを書いた。
評価手順、環境、患者の反応。
どこにも大きな逸脱はない。
「仕方ない事故だ」
久我はそう言った。
「評価自体に問題はない。転倒リスクは説明できる範囲だ」
「……はい」
叶多は頷いた。
反論する言葉は、見つからなかった。
その夜、帰宅してからも、患者の転ぶ瞬間が頭から離れなかった。
ほんの一瞬。
だが、確かに「予兆」はあった。
それを、自分は見落としたのか。
それとも――。
翌日、骨折の診断が出たと聞いた。
退院は白紙になり、治療計画は大きく変わる。
叶多は、病棟の廊下で立ち止まった。
事故は説明できる。
だが、納得できない。
その感覚が、胸の奥に静かに沈殿していく。
まだ言葉にはならない。
だが、この時すでに、物語は静かに動き始めていた。
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