第2話 評価という儀式
退院前歩行評価は、儀式に似ている。
患者は「できる自分」を見せたい。
医療者は「安全な結果」を示したい。
その二つが、同じ方向を向いているようで、微妙にずれている。
評価対象の患者は七十代の男性だった。脳梗塞後の右片麻痺。発症から三か月、回復は順調。カルテ上の数値も、基準を満たしている。
「今日は、歩いて確認します」
叶多がそう告げると、患者は力強く頷いた。
「もう家に帰れるって、先生に言われてるからね」
その言葉に、叶多は一瞬だけ視線を落とす。
帰りたい。
その気持ちは、評価の場では時に危険になる。
「無理はしないでください」
「大丈夫だよ。前も歩けたし」
患者は笑った。
評価が始まる。
立ち上がり。
一歩目。
二歩目。
問題ない。
少なくとも、表面上は。
叶多は患者の左側、やや後方に位置を取る。スクラブの袖口が、患者の視界に入らないよう距離を保つ。
足運びは安定している。体幹の揺れも少ない。
――いける。
そう思った瞬間、患者の歩幅がわずかに広がった。
「ほら、できるだろ」
その声と同時に、支持脚の荷重が一瞬だけ抜ける。
叶多は反射的に一歩踏み出した。
腕が伸び、患者の体幹に触れる寸前で、久我の手が先に入った。
「止めます」
短い声。
患者の身体が支えられ、転倒は免れた。
静寂が落ちる。
「……今の、何が起きた」
久我が叶多に問う。
「歩幅が広がり、重心が前に――」
「違う」
久我は遮った。
「患者は『できる』と思った。その瞬間に、評価が変わった」
患者は気まずそうに笑い、椅子に腰を下ろした。
「すみません、調子に乗りました」
「謝る必要はありません」
久我はそう言い、カルテに視線を落とす。
「評価は問題なし。だが、今日はここまでだ」
患者は少し残念そうだったが、反論はしなかった。
評価は終わった。
事故は起きていない。
それでも叶多の胸には、説明しきれない感覚が残っていた。
――今のは、本当に「問題なし」だったのか。
久我は振り返り、叶多に言った。
「よく見ていた」
「……ありがとうございます」
「だが覚えておけ。評価は、結果がすべてだ」
その言葉は、正しい。
あまりにも正しくて、反論の余地がなかった。
叶多は頷いた。
その時は、まだ分からなかった。
この「正しさ」が、後に何を連れてくるのかを。
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