判断の置き場―ある理学療法士の現場から―
佐藤くん。
違和感の発生
第1話 判断の置き場
その紺色のスクラブは、まだ身体に馴染んでいなかった。
クリーニングから戻ってきたばかりの生地は、必要以上に張りを主張し、首元や脇の内側に、かすかな異物感を残す。橘叶多は、その違和感を振り払うように肩を回し、鏡の前に立った。
千葉県内でも屈指の規模を誇る総合病院。
朝八時過ぎの職員更衣室は、スチールロッカーの無機質な光沢と、制汗剤の匂い、そしてコーヒーの苦みが混ざり合う、独特の空気に満ちていた。
叶多は鏡の中の自分を、静かに見つめる。
スクラブの襟元。
名札の位置。
ポケットの中身。
胸ポケットには何も入れていない。ボールペンは腰ポケットの奥、PHSは専用のポーチ。爪は短く整え、腕時計の文字盤は秒単位で時報と合っている。どれも養成校で、繰り返し叩き込まれた「リスク管理」の基本だ。
――大丈夫だ。
そう言い聞かせるように、叶多は小さく息を吐いた。
国家試験に合格し、正式に理学療法士として働き始めて一か月。
知識はある。評価手順も頭に入っている。
それでも、鏡に映る自分が「現場に立つ人間」に見えるかと問われれば、まだどこか借り物のようだった。
「相変わらず、きっちりしてるな」
背後から声がして、叶多は振り返る。
同期入職の作業療法士、木下だった。彼はスクラブの袖を通しながら、どこか呑気な笑みを浮かべている。
「そんなに力入れなくても、倒れる患者は倒れるよ」
「……倒れないようにするのが、俺たちの仕事だろ」
「はいはい。真面目だねえ」
木下は軽く手を振り、先に更衣室を出ていった。
叶多はその背中を見送り、もう一度だけ鏡を見る。
真面目。
それは褒め言葉でもあり、呪いでもあった。
更衣室を出ると、病院の朝の音が一斉に押し寄せてくる。ストレッチャーの車輪が床を転がる低音、ナースコールの電子音、遠くから聞こえる医師の声。巨大な建物が、ゆっくりと目を覚ます時間だ。
リハビリテーション部へ向かう長い廊下で、叶多は一人の背中を見つけた。
久我修一。
リハビリテーション部の副主任であり、叶多の直属の指導者。
紺色のスクラブを、まるで制服のように着こなしている。無駄な動きがなく、歩幅も一定。歩行周期そのものが、理学療法士としての完成度を物語っていた。
「おはようございます」
声をかけると、久我は歩みを止めずに、わずかに振り返った。
「早いな、橘」
「はい」
「今日の予定は把握しているか」
「八時四十分から慢性期病棟の退院前評価です」
「いい。評価は感情を入れるな。数字と事実だけを見ろ」
淡々とした口調。
だが、冷たいわけではない。むしろ、余計な温度を削ぎ落とした声だった。
「患者が『できる』と言っても、それを鵜呑みにするな」
「はい」
「だが、過度に止めるな。止める理由が説明できないなら、それは自己満足だ」
久我はそう言い、再び前を向いた。
正論だ。
少なくとも叶多には、そう聞こえた。
リハビリテーション室に入ると、天井の高い空間に朝の光が降り注いでいた。平行棒、プラットフォーム、エルゴメーター。多くの患者と療法士が、それぞれの「回復」に向かって動いている。
ここが戦場だ。
そして、自分はまだ新兵に過ぎない。
久我は足を止め、叶多に言った。
「今日は評価を任せる」
胸が、わずかに跳ねた。
「私も見る。だが、主導はお前だ」
「……はい」
その言葉に、叶多は小さく頷いた。
信頼されている。そう思いたかった。
まだ、この時は。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます