第一話 絶望の扉を叩く音

 胃に固形物を無理やり押し込む作業が終わり、再び虚無が訪れる。


 次にすべきことは、何一つなかった。


 このまま夜まで座っていてもいい。


 あるいは、意味もなく大鎌の手入れを続けてもいい。どちらにせよ、何も変わらない。


 その、途方もない緩慢な死こそが、今の私の日常だった。


 その静寂を破る音が、唐突に響いた。


 ――ドン、ドン、ドン。


 嵐の夜でもないのに、何者かが、荒々しく小屋の扉を叩いている。


 獣ではない。知性のある、人間の叩き方だ。


 私は動かなかった。


 これまでの二年間、迷い込んできた旅人や猟師が何度かいたが、私は常に無視を決め込み、相手が諦めて立ち去るのを待った。


 関わる理由がない。


 関わる資格もない。


 しかし、扉を叩く音は止まらなかった。


 それどころか、懇願するような、切羽詰まった声が風に乗って聞こえてくる。


「頼む! 誰か、誰かいないのか!」


「『雪原の魔女』がいると聞いたんだ!」


 その呼び名に、私の眉がわずかに動く。


 やがて、叩く力が弱まり、ずるずると何かが崩れるような音の後、扉にすがりついて嗚咽するような声だけが残った。


 無視すればいい。いつもと同じように。


 そうすれば、やがて諦めて立ち去るか、あるいは力尽きて雪の中に埋もれるか。


 どちらにせよ、私には関係のないことだ。


 そう、頭では分かっているのに。


 なぜか、身体が動いた。


 二年間、自らの意思で開けたことのなかった重い扉に、ゆっくりと手をかける。ギィ、と凍てついた蝶番ちょうつがいが悲鳴を上げた。


 扉の前にいたのは、私よりもいくつか年上に見える青年だった。


 旅人にしては立派な、しかし雪と氷で汚れた服をまとい、息も絶え絶えにその場にへたり込んでいる。


「あ……」


 青年は、目の前に現れた、小柄な私の姿に言葉を失う。


 だが、私の背後に立てかけられた、禍々しい大鎌を見て、彼は最後の力を振り絞るように言った。


「たの、む。妹を、サーシャを助けてほしいんだ」


 私は、何も答えない。


 ただ、感情の読めない瞳で青年を見つめる。


 青年は懐から大切そうに、古い一冊の本を取り出した。


「妹は、難病なんだ。どんな薬も効かない。けど、この本に載っていた……万年氷の洞窟にだけ咲くという『月下の涙』という花……それだけが、唯一の希望なんだ」


『月下の涙』


 その名前に、聞き覚えがあった。


 かつて、まだ私が「聖女」と呼ばれていた頃、宮廷の書庫で読んだことがある。


 実在さえ疑われる、伝説上の花。


「あんたなら、この場所を知っているんじゃないか? 礼は、必ずする。俺の持っているもの全て、あんたに渡したっていい!」


  私は、青年から視線を外し、再び小屋の中の大鎌へと目を向けた。


 そして、二年間、ほとんど動かしたことのない唇から、消え入りそうな、錆びついた声で告げた。


「……入って」


 青年は、戸惑いながらも、凍えた身体を引きずるようにして小屋の中へと一歩、足を踏み入れた。


 室内には、物がない。


 粗末なベッドと、小さなテーブル、そして壁に立てかけられた、あの不吉な大鎌。


 暖炉の火だけが、この殺風景な空間で唯一、生きているかのように揺らめいていた。


「……落ち、着いて。……ゆっくり、話して」


 再び、錆び付いた声が私の口から漏れる。


 二年の沈黙は、声帯の使い方さえ忘れさせていた。


 一つ一つの言葉が、喉の奥からガラスの破片を吐き出すように、痛みを伴う。


 その声に、青年ははっと我に返ったようだった。


 彼は床に膝をついたまま、深く、深く頭を下げた。


「すまない…。俺は、ライハだ。妹のサーシャを助けたくて…」


 顔を上げた彼が、問いかけるように私を見る。


名前を、尋ねているのだ。


 名乗るべき名は、とうに捨てた。


 そんなものは、この雪原には不要なものだ。


「……雪原の魔女。それ以上でも、それ以下でも、ない」


 私がそう答えると、ライハは息を呑み、しかし、それ以上は何も聞かなかった。


 彼は、妹のサーシャの話を始めた。


 身体が、まるで冬の訪れのように、少しずつ冷たくなっていく原因不明の病。


 名医と呼ばれる者は全て訪ね、あらゆる薬を試したが、進行は緩やかになるばかりで、決して止まることはないのだという。


 そして、最後の希望が、あの『月下の涙』。


 私は、暖炉の火を見つめながら、その話をただ聞いていた。




 青年――ライハの話は、切実だった。


 身体が冬の訪れのように冷たくなっていく原因不明の病。あらゆる名医を訪ね、薬を試しても止まらない進行。


 彼の言葉には、聞く者の心を動かす熱があった。


 だが、私の心は、凍てついた湖面のように何の波紋も描かない。


 希望、絶望、家族愛。


 それは、あまりにも遠い、かつて自分も持っていたはずの感情の残骸だ。


「……今日は、ここに、泊まっていくといい」


 私は会話を打ち切り、部屋の隅にある寝床へと向かった。


 これ以上、話すことはない。

 

 ぱち、と薪の爆ぜる音だけが、気まずい沈黙に満ちた小屋に響いていた。

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死にたがりの聖女は、雪原の魔女となって贖罪を探す。〜妹を救いたい青年と行く、再生の旅路〜 R.D @r_d

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