死にたがりの聖女は、雪原の魔女となって贖罪を探す。〜妹を救いたい青年と行く、再生の旅路〜

R.D

プロローグ 味を忘れた魔女と、罪の残滓

 風は、死者のむくろから肉を削ぎ落とすように、絶えず吹き荒れていた。


 世界のすべてが白と鼠色ねずみいろに塗りつぶされた、最果ての地。


 色を持つものは、血の赤と、絶望の黒だけだった。


 きしり、と雪を踏む音が、かろうじて生命の存在を告げる。


 音の主は、少女だった。


 年の頃は十代の終わりに見える。吐く息の白さだけが、彼女を風景から切り離していた。


 肩に担ぐにはあまりにも不釣り合いな大鎌の刃、鉛色の空をにぶく反射する。


 その刀身も、彼女が纏うぼろぼろの外套も、既に乾いて黒ずんだ飛沫で汚れていたが、少女は気にも留めていなかった。


 雪原にぽつんと立つ、今にも崩れそうな小屋の扉を開ける。


 室内は、外とさして変わらない冷気が満ちていた。


 消えかかった暖炉の残り火に、無造作に薪をくべる。


 ぱちり、と火の粉が爆ぜる音も、今の彼女にはただの雑音だ。


 鍋の底に凍りついていたシチューの残りを、ナイフで削り取って口に放り込む。


 かつては何かの味がしたはずのそれも、今では舌の上を滑り落ちていくだけの、味のない塊でしかなかった。


 生きるために咀嚼し、嚥下えんかする。

 ただそれだけの作業。


「……っ」


 ふと、鼻をついた。


 鉄の、生臭い匂い。


 少女――フィーネは、自らの手を見下ろす。


 そこには、何もついていない。


 だが、視界の端で、赤い幻がちらつく。


 ……やめて。


 声にならない叫びが、喉の奥で凍りついた。


 彼女は衝動的に立ち上がり、壁に立てかけていた大鎌を手に取った。


 親友の形見。そして、自らの罪の象徴。


 乾いた布で、刃についた幻の血を、何度も、何度も拭う。


 鉄と油の匂いが、ようやく忌まわしい記憶を上書きしていく。


 まぶたが鉛のように重い。


 開ける、という単純な動作に、意思の力が追いつかない。


 昨夜、眠りについたはずなのに、疲労は欠片も回復していなかった。


 むしろ、心のおりはさらに深く沈殿している。


 ……また、朝が来てしまった。


 思考が、ぬるま湯の中を漂うようにまとまらない。


 なぜ、また目が覚めてしまったのか。


 昨夜、暖炉の火が消えるのを、そのまま見届けていれば。


 そうすれば、この冷気が穏やかに命を奪い、二度と悪夢にうなされることのない、永遠の眠りを与えてくれたかもしれないのに。


 窓の外は、昨日と何も変わらない、白と灰色の世界が広がっている。


 果てしない絶望を具現化したような景色だ。


 腹の奥で、微かなうずき。


 生への執着などとうに失くしたはずの身体が、それでも生存を諦めていないことが、ひどく煩わしかった。


 軋む身体に鞭を打ち、調理台へ向かう。


 棚には、干し肉と、石のように硬くなった黒パン。


 何を作るか、という思考さえ億劫だった。

 

 結局、一番手間のかからない干し肉を手に取る。


 ナイフを握るが、手に力が入らない。


 数回、浅く刃を滑らせただけで、集中力は霧散した。


 ……どうでも、いいか。


 食事も、暖炉の火も。


 このまま、ここで動かずにいれば、やがて夜が来て、今度こそ本当の終わりが訪れるかもしれない。


 その甘い誘惑に、意識が沈みかけた、その時。


 壁に立てかけた、大鎌の禍々しいシルエットが視界に入った。


 親友の形見。罪の象徴。


 そして、果たされなければならない、誓いの証。


 幻聴が、鼓膜を打つ。


『まだ、足りない』


『お前が奪った命の数には、まだ、遠い』


「……ぅ、く…」


 呻き声が漏れた。


 震える手で再びナイフを握りしめ、全体重を乗せて、力任せに干し肉へと突き立てる。


 味などしない。


 ただ、砂を噛むように、乾いた肉とパンを胃に流し込む。


 それが、英雄のなれの果て。


「雪原の魔女」と呼ばれるようになった少女の、ありふれた一日のはじまりだった。

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