第二戒(前編)探偵方法に超自然能力を用いてはならない

「探偵小説のルールって知ってるか?」

 事件の真犯人に、俺は告げることになる。

「幽霊が事件を解決してくれるなら、探偵なんて商売はとっくに廃業だ」


 1


「ねえノックス、幽霊退治の依頼よ」


 いつもの安っぽいバー。ダウンタウンの喧騒から逃れるようにカウンターの隅でバーボンを舐めていると、隣から弾んだ声がかかった。

 リサ・ロス。

 劇場での殺人事件から数週間。彼女はスタッフジャンパーを脱ぎ捨て、少し大人びたジャケットを羽織っている。赤毛をかき上げる仕草も、どこか板についてきた。

「俺はエクソシストじゃない。ゴーストバスターズの版権元はあっちだ」

 俺はグラスに残った氷をカランと鳴らし、店の奥にある埃をかぶった公衆電話を顎でしゃくった。

「つれないわね。せっかく私が選りすぐりのネタを持ってきたのに」

 リサは隣のスツールに腰掛け、慣れた様子でジン・トニックを注文した。

「そもそも、君はいつから探偵の助手みたいな顔をしてここに座るようになったんだ? 劇場の仕事はどうした?」

「辞めたわ。あの事件の後、劇場はしばらく閉鎖だしね。それに……」

 彼女は悪戯っぽく瞳を輝かせた。

「私、才能があるかもしれないって思ったの。隠された真実を暴く、そのスリルにね。だから、フリーのジャーナリストに転職したのよ。あなたのワトスン役として、情報収集を手伝ってあげる」

「頼んだ覚えはないがな」

「いいから聞いて。今度のヤマは大きいわよ。郊外のブラックウッド邸で起きた、本物の呪い殺しの話」


 リサはタブレットを取り出し、一枚の写真を突きつけた。陰気なゴシック様式の屋敷の写真だ。

「アーサー・ブラックウッド。金融界のフィクサーとも呼ばれた大富豪。彼が昨夜、死んだわ」

「死因は?」

「絞殺。問題は、その状況よ。彼の書斎で見つかったんだけど、ドアも窓も内側から施錠された完全な密室。しかも……彼は一週間前に、自分の死を予言されていたの」

「予言?」

「『七日後、汝の魂は闇に引きずり込まれる』――屋敷に出没する白い影にそう告げられたそうよ。そしてきっかり七日目の夜、彼は密室で息絶えた。警察もお手上げ状態らしいわ」


 呪いの予言、密室殺人、そして幽霊。三文小説のような設定だが、ブラックウッドという大物が絡んでいるとなれば話は別だ。

「……集団ヒステリーか、誰かの悪趣味な演出だろ」

「それがね、屋敷の使用人たちも怯えきってるの。夜な夜な響く足音、勝手に割れる鏡、そして……何もない空間から聞こえる『罪を償え』という囁き声。ポルターガイスト現象のオンパレードよ」

 リサは声を潜めた。

「でも、私が気になったのはそこじゃないわ。ブラックウッドが死ぬ直前、ある霊媒師に救いを求めていたこと。マダム・エヴァンジェリン。最近、富裕層の間で急に名を上げている謎の女よ」

「胡散臭いな」

「でしょう? でも、ブラックウッドは彼女を異常なほど信頼していた。彼が通っていた会員制のクラブで、『本物の力を持つ霊媒師がいる』って噂を耳にして、わざわざ呼び寄せたらしいの。まるで、誰かにそう仕向けられたみたいにね」

 リサの言葉に、俺は眉をひそめた。誰かに仕向けられた?

「面白そうだろ? 探偵さん。そのふざけた幽霊の正体、暴いてみたくない?」

 俺はバーボンを一気にあおり、席を立った。

「……上等だ。幽霊に現実ってやつを教えてやる」


 2


 翌朝、俺とリサはブラックウッド邸の前に立っていた。

 街外れの丘の上にそびえる屋敷は、朝霧に包まれ、まるで巨大な墓標のように静まり返っていた。黒ずんだ石造りの壁、尖塔のような屋根、蔦に覆われた格子窓。近づくだけで肌寒さを感じるような、典型的なホラー映画の舞台装置だ。

「うわあ……写真で見るよりずっと陰気ね」

 リサがジャケットの襟を合わせ、身震いした。

「幽霊が出るにはおあつらえ向きだ」


 重厚な玄関ドアのノッカーを叩くと、しばらくして扉が軋みながら開いた。

 現れたのは、銀髪をきっちりと撫でつけた、背の高い老執事だった。黒の燕尾服を着こなし、その立ち姿には長年この屋敷に仕えてきた者特有の威厳と、隠しきれない疲労が滲んでいる。

「……どちら様でございましょうか? 本日は取り込み中でして」

「私立探偵のノックスだ。ブラックウッド氏の死について、いくつか確認したいことがある」

 俺が名刺を差し出すと、老執事は眉をひそめ、次にリサの方を見た。その瞬間、彼に目に見える動揺が走ったように見えた。

「……おや? そちらのお嬢さんは……」

 老執事は目を細め、リサの顔を凝視した。

「どこかでお会いしましたかな? 以前、屋敷にいらしたことが?」

 リサは平然と微笑んだ。

「いいえ、初めてよ。よくある顔だから、誰かと見間違えたんじゃないかしら? 私は助手のロスです」

「……そうですか。失礼いたしました。最近、どうも記憶が曖昧でして……」

 老執事は頭を振り、自己紹介した。「執事のジェンキンスでございます」

 彼は少し躊躇した後、重い扉を開け放った。

「警察の方からは部外者をあまり入れるなと言われておりますが……ノックス様のお名前は、以前から旦那様が噂にしておられました。『あの男なら、この呪いを解けるかもしれん』と。どうぞ、中へ」


 屋敷の内部は、外観以上に陰鬱だった。高い天井、薄暗い照明、そして埃と古い木の匂いが混じった、淀んだ空気。

 だが、それ以上に俺が気になったのは、鼓膜を圧迫するような、奇妙な不快感だった。

(なんだ、この感覚は……?)

 耳鳴りのような、あるいはもっと低い、腹の底に響くような振動。意識しなければ気づかないレベルだが、長時間ここにいれば確実に精神を削られそうだ。

「空気が重いな」俺は呟いた。

「ええ。ここ数週間、ずっとこんな調子です」ジェンキンスは沈痛な面持ちで答えた。「屋敷全体が、何かに怒っているような……そんな気配がするのです」


 案内されたのは二階の書斎だった。現場保存のため警察のテープが張られているが、ジェンキンスの案内で中を覗くことができた。

「ここが現場です。昨夜、旦那様はこのデスクに突っ伏して亡くなっておられました」

 書斎の中は、壁一面の本棚と、中央の重厚なマホガニーのデスクが印象的だった。部屋の隅には大きな暖炉があり、今は冷たく黒ずんでいる。

「発見時、この扉は内側から鍵がかかっていました。窓もすべて施錠済み。スペアキーは金庫の中にあり、唯一の鍵は旦那様のポケットに入っていました」

 ジェンキンスの説明は淡々としていたが、その声には微かな震えがあった。

「旦那様は、この一週間、この部屋に閉じこもっておられました。『あいつが来る』『許してくれ』と、うわ言のように繰り返しながら……」


 俺は部屋の中に入り、床を調べた。埃が積もっている場所もあるが、デスクの周りだけは妙に綺麗だ。争った形跡はない。まるで、ブラックウッドが自ら死を受け入れたかのように。

「ジェンキンスさん、旦那様は誰かに命を狙われる心当たりは?」

「……敵の多い方でしたから。ビジネス上のトラブルは絶えませんでした。ですが、今回のような……人知を超えた何かを恐れておられたのは初めてです」

 彼は言葉を濁し、視線を逸らした。この老執事、何かを知っている。あるいは、知っていて口をつぐんでいる。

「マダム・エヴァンジェリンという霊媒師を呼んだのは?」

「はい。旦那様がどうしてもと仰って。彼女が来てから、怪奇現象はさらに酷くなりました。彼女は『怨念が強すぎる』と言って、毎晩のようにお祓いをしていましたが……」


 その時だった。

 ガタガタガタッ!

 突然、本棚の一部が激しく振動し、数冊の本が床に落下した。

「きゃっ!」

 リサが短く悲鳴を上げ、俺の腕にしがみついた。

「な、なに今の!? 地震!?」

「いいえ……」ジェンキンスは顔面蒼白で震えている。「またです……。昼間からこんなことが起きるなんて……」

 俺はすぐに本棚に駆け寄り、裏側や側面を調べた。揺れたのは一部だけだ。局所的な振動。

(ワイヤーか? それとも磁力?)

 だが、目に見える仕掛けはない。

 さらに、部屋の奥から、ズズズ……という低い音が響いてきた。まるで、壁の向こうで何かが蠢いているような音だ。

 リサの顔色が悪い。「ノックス、ここ、本当に何かいそうよ……」

「落ち着け。幽霊なんているわけがない。何らかの物理的な作用だ」

 俺は冷静に返したが、この現象の原因はすぐには特定できなかった。


 3


 書斎を出て、俺たちは一階のサロンへ通された。ジェンキンスが紅茶を用意してくれている間、俺はリサに小声で話しかけた。

「リサ、さっきジェンキンスがお前を見て反応した時、何か心当たりはなかったか?」

「え? ないわよ。こんな陰気なお爺さん、会ったことないもの」

 リサは紅茶のカップに口をつけながら、首を傾げた。

「まあ、私の顔って特徴がないから、よく間違われるのよ。それよりノックス、あの揺れ、どう思う? 本当に仕掛けなの?」

「ああ。だが、かなり巧妙だ。単純な糸や磁石じゃないかもしれない。それに、あの不快な圧迫感……」

 俺は周囲を見回した。

「この屋敷には、何か特殊な環境要因がある。例えば、低周波音だ」

「低周波音?」

「人間の耳には聞こえない低い音だ。これに晒され続けると、不安感や吐き気、時には幻覚を見ることさえある。さっきの本棚の振動も、特定の周波数の共振現象で説明がつくかもしれない」

「へえ……。まるで科学実験室ね」リサは興味深そうに頷いた。「でも、誰がそんなことを? 霊媒師のエヴァンジェリン?」

「彼女が怪しいのは間違いない。だが、そんな大掛かりな装置を屋敷に持ち込んで、誰にも気づかれずに設置できるか? 内部の協力者がいなければ不可能だ」

 俺の視線は、サロンの入り口に戻ってきたジェンキンスに向けられた。


 ジェンキンスは、銀のトレイにお菓子を載せて戻ってきた。その手つきは丁寧だが、やはりどこか上の空だ。

「ジェンキンスさん、少し立ち入ったことを聞くが」

 俺は単刀直入に切り出した。

「あなたはブラックウッド氏に、どれくらい仕えている?」

「……三十年になります。先代の頃からです」

「なら、二十年前に起きた『ある事件』についても知っているはずだな」

 リサが事前に調べてくれた情報だ。ブラックウッド社の元経理部長が、不正の濡れ衣を着せられて自殺した事件。

 ジェンキンスの手が止まり、カップがソーサーの上でカタリカタリと震えた。

「……なぜ、そのことを?」

「霊媒師のエヴァンジェリン。彼女の本名はアンジェラ・ベル。その自殺した経理部長の娘だ」

 俺が告げると、ジェンキンスは崩れ落ちるように椅子に手をついた。

「やはり……そうでしたか。あの方の面影があるとは思っていましたが……」

「気づいていたのか?」

「……確信はありませんでした。ただ、彼女を見るたびに、胸が締め付けられるような罪悪感が……」

 ジェンキンスは苦渋の表情で語り始めた。

「あの事件は、旦那様が仕組んだことでした。経理部長は無実だった。私は……それを知っていながら、保身のために黙認してしまったのです。その報いが、今になって現れたのでしょう」


 動機は繋がった。アンジェラ・ベルの復讐。

 だが、ジェンキンスの反応には、まだ違和感がある。彼はアンジェラの正体に薄々気づきながら、なぜ彼女を屋敷に入れた? 単なる贖罪か?

 それとも、彼もまた、ブラックウッドに対して含むところがあったのか?


「旦那様がエヴァンジェリン様を呼ぶと言い出した時、私は止めませんでした。むしろ……心のどこかで、彼女が旦那様に罰を与えてくれることを期待していたのかもしれません」

 ジェンキンスは告白した。

「ですが、殺すつもりまでは……! 私はただ、旦那様に過去の罪を悔いていただきたかっただけなのです!」

 老執事の悲痛な叫びが、静まり返った屋敷に吸い込まれていく。


 4


 その夜、俺たちは屋敷に泊まり込むことにした。ポルターガイストの正体と、密室のトリックを暴くために。

 深夜。屋敷は完全な静寂に包まれていたが、あの不快な圧迫感だけはずっと続いていた。

 俺はリサを客間に残し、一人で屋敷内を探索した。手には、密かに持ち込んだ音圧計を持っている。

 廊下を歩くと、数値が跳ね上がる場所があった。壁の中、あるいは床下。

「……やはりな」

 俺は壁に耳を当てた。微かだが、空調の音とは違う、人工的な駆動音が聞こえる。

 この屋敷には、元々何か特殊な設備があったのか、あるいは最近設置されたのか。


 書斎の前まで来た時だった。

 廊下の突き当たりに、白い影が揺らめいた。

 ぼんやりとした輪郭、長い髪。エヴァンジェリンが予言した「白い影」か?

「誰だ!」

 俺は懐中電灯を向けたが、光が届く前に影は壁をすり抜けるように消えた。

 目の錯覚か? いや、幻覚か?

 俺自身の感覚も、この低周波音に狂わされ始めているのかもしれない。

 俺は頭を振り、影が消えた壁へと近づいた。そこには扉も何もない。ただの装飾された壁だ。

 だが、壁を叩いてみると、中が空洞のような乾いた音がした。

「隠し通路……?」

 いや、そんな単純なものではない気がする。もっと巧妙な、視覚的トリック。

 俺は足元を調べた。カーペットの一部に、わずかな擦れ跡がある。

(……プロジェクターか、あるいは鏡を使ったトリックか?)


「キャアアアアッ!」

 客間の方角から、リサの悲鳴が聞こえた。

 俺は弾かれたように駆け出した。

「リサ!」

 ドアを蹴破って客間に入ると、リサがベッドの上で震えていた。

「ノックス! 窓! 窓の外!」

 彼女が指差す窓ガラスの外に、白い顔が張り付いていた。

 血走った目、裂けた口。ブラックウッドの死に顔にも似た、醜悪な面。

 俺は窓に駆け寄り、カーテンを開け放った。

 だが、そこには何もいなかった。ただ、風に揺れる木の枝が、ガラスを叩いているだけだ。

「……誰もいないぞ」

「嘘よ! 確かにいたの! 私を睨んで……『お前も同類だ』って……!」

 リサは錯乱気味に叫んだ。

 俺は彼女の肩を掴み、落ち着かせた。

「リサ、しっかりしろ。これは演出だ。俺たちを怖がらせて、ここから追い出すためのな」

 俺は窓ガラスをよく観察した。ガラスの表面に、特殊なフィルムのようなものが貼られている痕跡がある。あるいは、外の木の枝の動きと照明を組み合わせた錯視か。

「……同類、か」

 リサの言葉が引っかかった。幽霊あるいは犯人は、なぜリサにそんなことを言ったのか?


 翌朝。

 俺たちは再び書斎に入った。

 密室の謎。低周波音の発生源。そして、アンジェラ・ベルの行方。

 パズルはまだ散らばっている。だが、昨夜の探索で一つの仮説が浮かび上がっていた。

 俺は暖炉の前にしゃがみ込み、煤で汚れた奥壁を指でなぞった。

「ジェンキンスさん、この暖炉はいつから使っていない?」

「ええと……数年前から、煙突の不具合で封鎖しております」

「封鎖? いや、風が通っているぞ」

 俺はライターの火をかざした。炎が奥へと吸い込まれていく。

「そして、ここを見てくれ」

 俺は暖炉の奥、レンガの隙間に挟まった、小さな布切れをピンセットで引き抜いた。

 黒いレースの切れ端。そして、そこには独特の香の匂いが染み付いていた。

「マダム・エヴァンジェリンが着ていたドレスの素材と一致しそうだな」

 俺は立ち上がり、ジェンキンスとリサを見た。

「幽霊は壁をすり抜けない。だが、人間なら抜け道を通れる」

 俺の中で、事件の構図がカチリと組み上がった。

 超自然現象というヴェールの下で行われた、極めて物理的で、そして執念深い復讐劇の全貌が。

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