第一戒(後編)犯人は物語の序盤に登場していなければならない
5
警察が到着し、劇場は完全封鎖された。華やかなプレミア会場は、一転して殺伐とした取調室へと姿を変えた。
俺は馴染みの刑事に、ハドソンから警護依頼を受けていた経緯を話し、現場検証への立ち会いを許可された。
「心臓を一突きか。迷いがないな」
刑事は遺体を見下ろし、渋い顔をした。
「凶器のナイフは、劇場後方の非常口ドアの隙間にねじ込まれているのが発見された。指紋は拭き取られている。プロの犯行か、あるいはよほど周到に準備した素人か」
容疑者は、上映中に席を立つことが可能だった人物、あるいはハドソンの近くに座っていた人物に絞られた。だが、あの絶対的な闇と轟音の中では、目撃証言など期待できない。
俺は劇場の関係者用控室に集められた四人の容疑者たちを順に見回した。
プロデューサーのマイク・アンダーソン。「俺はずっと一番後ろのVIP席にいた。隣にいた秘書が証人だ。……ハドソンが死んで映画の公開がどうなるか、今はそれだけが心配だ」と額の汗を拭う。
脚本家のダニエル・ブレイク。「ざまあみろ、と言いたいところだが、殺してはいない。俺は右側のブロックにいた。移動なんて不可能だ」と吐き捨てる。
主演俳優のエリック・ノーマン。「トイレに行こうとして席を立ったのは認める。だが、暗転で動けなくなって、通路でうずくまっていただけだ! 人を刺すなんてできるわけがない!」と声を荒らげる。
そして、助監督のトム・ミラー。「僕は……最後列の音響ブースの近くで待機していました。万が一のトラブルに備えて……」と、青ざめた顔で俯いている。
全員に動機があり、状況証拠は誰にとっても不透明だ。
「お手上げだな、ノックス。暗視ゴーグルでも持っていなきゃ、あんな芸当は不可能だ。持ち物検査もしたが、それらしいものは出てこない」
刑事が頭を抱える。
「暗視ゴーグルか。……いや、そんな大掛かりなものは必要ないさ」
俺は静かに首を振った。
「犯人は、もっとシンプルで、かつ確実な方法で見えない殺人を実行したんだ」
「どういうことだ?」
「刑事さん、あのクライマックスの演出――『シャドウ・ゾーン』を覚えているか?」
「ああ。ひどい音と振動だったな。平衡感覚がおかしくなりそうだった」
「それが重要なんだ。あの演出は、視覚と聴覚を奪うだけじゃない。床下からの強力な重低音振動によって、人間の三半規管を狂わせ、方向感覚を失わせる。暗闇の中で自分がどちらを向いているのかさえ分からなくなる。そんな状況で、ターゲットの心臓を正確に狙うには、どうすればいい?」
俺は控室の中央に進み出た。
「必要なのは二つ。ターゲットの正確な位置情報。そして、暗闇の海を渡るための『灯台』だ」
6
俺は刑事と共に、再び劇場内へ戻った。遺体は搬出されたが、血痕の残るカーペットが生々しい。
俺はハドソンが座っていた座席――左ブロック、五列目の通路側――の周辺を丹念に調べ始めた。
「ノックス、何を探している?」
「犯人が残した『灯台』の残骸だ。犯行直後、証拠隠滅のために破壊されたはずのものだ」
俺は懐中電灯で床を照らす。カーペットの毛足の間に、微細な破片が散らばっているのを見つけるのは容易ではない。
だが、リサが言っていた言葉がヒントになった。『トムくん、トイレで泣いてた』。そして、彼が俺に語った『音響設備の特殊性』。
俺はハドソンの席から通路を挟んで斜め後ろ、トムが座っていたとされる音響ブース付近から、ハドソンの席までの動線をイメージした。
そして、ハドソンの席のすぐ脇、通路のカーペットに、不自然な凹みと、何かが擦れたような跡を見つけた。さらにその近くに、踏み潰されたプラスチックの欠片のようなものが埋まっている。
「……あった」
俺はピンセットでそれを拾い上げた。
「これは……小型LEDライトの破片か?」刑事が覗き込む。
「ああ。それも、リモコンで操作できる極小タイプだ。釣りや模型に使われるようなやつだな」
俺は確信を持って立ち上がった。
「犯人は、開場前の準備中に、ハドソンの座席の足元近くにこれを貼り付けた。そして『シャドウ・ゾーン』の轟音と暗闇が始まった瞬間、リモコンでこれを点灯させたんだ。もちろん、光量はごくわずか、あるいは足元を照らすだけの指向性の強いものだ。周囲の観客はパニックと轟音で気づかない。犯人にとってだけ、それは闇に浮かぶ標的の目印となった」
「だが、ハドソンの席は直前に変更されたはずだぞ? それを知っていたのは……」
刑事の言葉が止まる。
「そう。急な来賓対応で、ハドソンの席を通路側に変更した人物。そして、その変更を誰よりも早く知り、座席表を書き換えた人物」
俺は振り返り、控室の方角を見た。
「トム・ミラー。彼しかいない」
7
再び控室。俺はトムの前に立った。彼は怯えた小動物のように震えている。
「トム。君の靴の裏を見せてくれないか?」
「え……?」
「さっき、通路でこれを拾ったんだ」
俺は証拠品袋に入れたLEDの破片と、さらに決定的な証拠――同じ場所で見つけた、小さなボタン電池――を彼に見せた。
「君は犯行後、ライトを踏み潰して証拠を消そうとした。だが、慌てていたせいで電池が飛び出し、靴底の溝に挟まったままになっているかもしれない。あるいは、踏み潰した時のプラスチック片が刺さっているか」
トムの顔色が土気色に変わった。
「そ、それは……」
「刑事が君の靴を鑑識に回せば、微細なプラスチック片や、ライトに使われていた粘着テープの成分が検出されるだろう。逃げ場はないぞ」
沈黙が部屋を支配した。他の容疑者たちも、息を呑んでトムを見つめている。
やがて、トムはガクリと膝をつき、床に手をついた。
「……僕の、脚本でした」
絞り出すような声だった。
「『シャドウ・ゲーム』は……僕が学生時代から何年もかけて構想した、僕の魂そのものだったんです。それを監督は……『いい素材だ』と言って取り上げ、自分の名前で発表しようとした。僕の名前はクレジットの隅っこに載せるだけで……」
トムは顔を上げ、涙と怒りに濡れた目で虚空を睨んだ。
「抗議しました。何度も、何度も! でも監督は『お前のような無名な若造の脚本なんて、俺の名前がなければ誰も見向きもしない』と笑った。僕の才能も、努力も、人生も、すべてあいつの踏み台にされたんだ!」
彼は震える手で、自分の胸を叩いた。
「あの『シャドウ・ゾーン』の演出だって、僕のアイデアだった! 観客を不安にさせるための演出……それを、あいつを殺すための舞台装置に変えてやったんだ。あいつが奪った僕の作品の中で、あいつを葬ってやるのが、唯一の復讐だと思ったから……!」
トムの告白は、悲痛な叫びとなって部屋に響いた。
誰も言葉を発せなかった。天才監督と呼ばれた男の、あまりに卑劣な裏側。そして、それに押し潰された若者の暴発。
犯行の手順は俺の推理通りだった。トムは座席変更の際、ハドソンの足元にLEDを設置。クライマックスの暗転と同時にライトを点灯させ、音響ブース付近から迷うことなく接近し、ナイフを突き立てた。轟音と振動が、彼の足音と気配を完全に消してくれたのだ。彼自身が設計した音響システムが、彼を透明人間にした。
刑事がトムの手首に手錠をかける。金属音が冷たく響いた。
「行こう、トム」
トムは抵抗せず、力なく立ち上がった。その表情からは、憑き物が落ちたような安堵と、深い絶望が入り混じっていた。
8
事件処理が一段落し、俺は夜風に当たるために劇場の外へ出た。パトカーの赤色灯が、濡れたアスファルトを毒々しく照らしている。
「ねえ、探偵さん」
背後から声をかけられた。リサだ。彼女はスタッフ用の裏口から出てきたようで、私服に着替えていた。
「解決したのね。すごいわ」
「……後味の悪い事件だったがな」
俺は煙草を取り出そうとして、オイル切れだったことを思い出し、舌打ちした。すると、横からスッと火が差し出された。
「はい、どうぞ」
リサが自分のライターで火をつけてくれた。
「ありがとう」
「トムくん、連れて行かれちゃったね。やっぱり、彼だったの?」
「ああ。才能を奪われた恨みだそうだ」
「そっか……。悲しいね。彼の脚本、本当に面白かったのに。ハドソン監督がいなくなれば、日の目を見るかもしれないけど、彼自身はもう……」
リサは寂しげに夜空を見上げた。
「でも、探偵さん。どうしてトムくんだって分かったの? LEDのトリックも見事だったけど、もっと前から目をつけてたんでしょ?」
俺は煙を吐き出し、彼女を見た。
「ある言葉を思い出したんだ。昔の偉い作家が決めた、探偵小説のルールさ」
「ルール?」
「『犯人は物語の序盤に登場していなければならない』」
俺は劇場の看板を見上げた。『シャドウ・ゲーム』のポスターには、ハドソンの名前だけが大きく踊っている。
「事件というのは、突発的に起きるものじゃない。そこに至るまでの物語がある。その物語の中心近くにいながら、光が当たらず、影の中に押し込められている人物……そういう奴こそが、闇の中で牙を研いでいるものだ」
俺は続けた。
「俺が最初にトムを見た時、彼はハドソンに罵倒されていた。だが、その目は死んでいなかった。俺が声をかけた時、彼は『人生がかかっている』と言った。あれは単なる仕事への熱意じゃなく、もっと切実な……命懸けの覚悟だったんだな」
リサは俺の言葉を噛み締めるように頷いた。
「……『犯人は序盤に登場していなければならない』か。面白いルールね。まるで、運命からは逃れられないって言われてるみたい」
彼女はふと、俺の顔を覗き込んだ。その瞳が、街灯の光を反射して怪しく光った気がした。
「じゃあ、この物語の序盤に登場した私も、いつか何かの犯人になったりして?」
冗談めかした口調だったが、その言葉には妙な引力があった。
「まさか。君は優秀な情報提供者だよ。今回も助かった」
「ふふ、そう言ってもらえると光栄だわ」
リサは微笑み、背伸びをした。
「じゃあね、ボーンスリッピー・ノックス。また何か事件があったら、連絡するわ。この街は退屈しないから」
「ああ、またな」
リサは軽やかな足取りで夜の街へと消えていった。
俺は吸い殻を携帯灰皿に押し込むと、コートの襟を立て、冷たい夜風の中を歩き出した。
ノックスの十戒 第一戒――
『犯人は物語の序盤に登場していなければならない』
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