【Gemini 3 pro版】十戒探偵ボーンスリッピー・ノックス

平手武蔵

第一戒(前編)犯人は物語の序盤に登場していなければならない

「探偵小説のルールって知ってるか?」

 事件の真犯人に、俺は告げることになる。

「犯人は、序盤から物語に登場していなければならない」


 1


「君がノックスさんか?」

 不機嫌な重低音が、映画館の豪奢なロビーの空気を震わせた。

 声をかけてきたのは、黒縁眼鏡をかけた大柄な男。リチャード・ハドソン。アメリカ映画界の鬼才、あるいは暴君と呼ばれる映画監督だ。仕立ての良いスーツに身を包んでいるが、ネクタイは少し緩み、その表情には隠しきれない苛立ちと、さらに深い場所にある怯えが混在していた。

「いきなり探偵を呼びつけるなんて、よほどのことか?」

 俺はエスプレッソのカップを置き、彼を見上げた。

「ああ。君はどんなに巧妙に隠された事実でも、泥の中から宝石を拾うように見抜いてしまうと聞いた。すべてを鮮明に浮かび上がらせる、その直感力――ボーンスリッピーとの異名を持つ君に、是が非でも頼みたいことがある」

 ハドソンは周囲を気にするように視線を巡らせた。ロビーには試写会の準備に追われるスタッフが行き交っているが、誰もが腫れ物に触るように、この監督から距離を取っているのが分かる。

 彼は声を潜め、テーブルに身を乗り出した。

「……俺は、近いうちに殺されるかもしれない」


 その言葉は、映画の安っぽい宣伝文句のようには響かなかった。彼の瞳孔は開き気味で、指先は小刻みに震えている。

「脅迫状でも届いたか?」

「そんな生易しいものじゃない。気配だ。殺意の視線だ。スタッフ、キャスト、出資者……俺の周りの人間すべてが、俺の喉笛を噛み千切りたがっているように見える」ハドソンは自身の首筋をさすった。「特に今回の新作『シャドウ・ゲーム』……こいつの完成を快く思っていない連中が多すぎる」

「被害妄想という線はないのか?」

「ない!」

 ハドソンが声を荒らげ、近くにいたスタッフがびくりと肩を跳ねさせた。彼は舌打ちをし、再び声を落とす。

「君に頼みたいのは、試写会当日の警護と、不審な動きをする人間の特定だ。俺の命を守れ。金なら弾む」


 俺は少し考え、コートのポケットから愛用のオイルライターを取り出した。

「ボディガードは専門外だが、不穏な空気の出所を探るのなら、俺の仕事だ」

「引き受けてくれるか」

「ああ。ただし、俺は俺のやり方で動く。あんたの指図は受けない」

 ハドソンは不服そうに顔を歪めたが、渋々といった様子で頷いた。

「いいだろう。ただし、失敗は許さんぞ。俺は天才だ。この映画史に残る傑作を世に出す義務があるんだ」


 その不吉な予言から三日後。ハドソンは死んだ。

 彼の最新作『シャドウ・ゲーム』のプレミア試写会が行われた、まさにその劇場のスクリーンの前で、心臓を正確に一突きされて。


 2


 時計の針を少し戻そう。試写会の三日前、依頼を受けた直後のことだ。

 俺は劇場の外にある喫煙所に向かった。ロビーの人工的な空調と、ハドソンの発する張り詰めた神経質な空気に当てられ、肺が紫煙を欲していた。

 重い鉄扉を開けて路地裏のようなスペースに出ると、先客がいた。劇場のスタッフジャンパーを着た若い女だ。燃えるような赤毛を無造作に束ね、壁に寄りかかってスマートフォンをいじっている。

 俺がライターを取り出し、カチリと火花を散らした瞬間、彼女が顔を上げた。

「火、つかないの?」

 彼女はスマートフォンをポケットにねじ込み、自分の使い捨てライターを差し出してきた。

「オイル切れか。悪いな」

 俺は礼を言い、火を借りた。煙を深く吸い込むと、ようやく思考がクリアになっていく感覚がある。

「あなた、ハドソン監督のお客さんでしょ? さっきロビーで話しているのを見たわ」

 彼女は人懐っこい笑みを浮かべた。その大きな瞳は、好奇心で輝いている。

「ああ。少し厄介な相談を受けてな」

「厄介な相談……もしかして、あの監督、誰かに殺されるとか言い出したんじゃない?」

 俺は眉をひそめた。「なぜそう思う?」

「だって、最近の監督、幽霊にでも取り憑かれたみたいにキョロキョロしてるもの。それに、ここだけの話、彼を恨んでる人は多いしね」

 彼女は声をひそめ、いたずらっぽくウィンクした。

「私はリサ。リサ・ロス。ここの劇場スタッフよ。あなたは?」

「ノックスだ。私立探偵をやっている」

「へえ、探偵さん! 本物を見るのは初めてかも。ハドソン監督が探偵を雇うなんて、やっぱり映画みたいな展開ね」

 リサは俺の顔をまじまじと見つめた。

「でも、あなたからは変な匂いがしないわね」

「変な匂い?」

「嘘つきの匂いよ。この業界、自分の経歴や才能を偽ってる人が多いから。あなたは、なんというか……地に足がついている感じがする。それに、あの監督の威圧感にも動じてなかったし」

 鋭い。単なる世間話好きなスタッフかと思ったが、この女、人を見る目は確かなようだ。

「褒め言葉として受け取っておくよ」

「ふふ、そうして。あ、そろそろ休憩終わりだわ。またね、探偵さん。何かあったら教えてあげるから」

 リサは手をひらひらと振り、鉄扉の向こうへと消えていった。嵐の前の静けさの中で、彼女の屈託のない明るさだけが、妙に印象に残った。


 3


 試写会当日。劇場は独特の熱気に包まれていた。着飾った招待客、忙しなく動き回るメディア関係者、そしてピリピリとした空気を放つ運営スタッフたち。

 俺は関係者パスを首から下げ、舞台裏やロビーを行き来しながら、ハドソンの周囲を観察していた。彼が言っていた「殺意の視線」は、あながち妄想ではないことがすぐに分かった。


 まずは、主演俳優のエリック・ノーマン。かつてのアクションスターだが、最近は落ち目と噂されている。彼はロビーの隅で、マネージャーらしき人物に怒鳴り散らしていた。

「ふざけるな! 俺の出演シーンがまたカットされてるだと? ハドソンの野郎、俺をただの客寄せパンダにしやがって!」

 その目は血走り、握りしめた拳は白くなっていた。


 次に、脚本家のダニエル・ブレイク。神経質そうな痩せた男で、廊下の陰で誰かと電話していた。

「……ああ、分かってる。クレジットから俺の名前を外すなんて許さない。訴えてやる。いや、社会的抹殺だ。あの独裁者のキャリアを終わらせてやるんだ……」

 陰湿な殺意が、その背中から滲み出ている。


 そして、プロデューサーのマイク・アンダーソン。恰幅の良い男だが、額には脂汗が光っていた。彼はハドソンと激しく口論していた。

「予算オーバーだ、リチャード! これ以上、君の道楽に付き合っていられない! この映画がこけたら、会社は終わりだぞ!」

「黙れ、金勘定しかできない豚が! 芸術には犠牲が必要なんだよ!」


 誰も彼もが動機を持っている。だが、最も俺の目を引いたのは、常にハドソンの傍らで罵倒され続けている、一人の若い男だった。

 助監督のトム・ミラー。

 華やかなロビーの一角で、ハドソンが彼に資料の束を投げつけている場面を目撃した。

「おい、トム! なんだこの座席表は! 俺の席がA列じゃないだと? 何度言ったら分かるんだ、この能無しが!」

 ハドソンの怒声が響く。周囲の人々が見て見ぬふりをして通り過ぎる中、トムは青ざめた顔で拾い集めた資料を抱え直していた。

「す、すみません監督……。ですが、急な来賓の追加で、どうしても中央ブロックの席を空ける必要が……」

「言い訳をするな! お前はいつもそうだ。自分の頭で考えられないなら、辞めてしまえ! いつまで経っても二流のままだぞ!」

 ハドソンはトムの胸を指で小突き、嘲笑うように鼻を鳴らして去っていった。残されたトムは、悔しさを押し殺すように唇を噛み締め、震える手で資料を握りしめていた。その姿は、見ていて痛々しいほどだった。


「大丈夫か?」

 俺が声をかけると、トムはハッとしたように顔を上げ、無理に作った笑顔を向けた。

「あ、いえ……すみません、お見苦しいところを」

 彼の目は充血し、疲労の色が濃い。俺は彼が落としたペンを拾い、手渡した。

「ハドソン監督の扱いは、いつもあんな感じなのか?」

「……はい。監督は完璧主義者ですから。僕みたいな未熟者が怒られるのは当然なんです」

 トムは自分に言い聞かせるように言ったが、その声には諦めと、微かな憎悪が混じっていた。

「あんた、よく耐えてるな。俺ならとっくに辞めてる」

「辞めるわけにはいきません。この映画……『シャドウ・ゲーム』には、僕の人生がかかっているんです」

 トムの表情が、ふと真剣なものに変わった。

「僕の人生?」

「……いえ、なんでもありません。とにかく、今日は絶対に失敗できないんです。監督のためにも、僕のためにも」

 彼は言葉を濁し、話題を変えるように劇場内を見渡した。

「探偵さん、知っていますか? この劇場、音響設備が特殊なんです」

「特殊?」

「ええ。監督のこだわりで、座席の床下に特殊なウーファーが埋め込まれているんです。重低音が直接体に響くように。観客の三半規管を揺さぶって、映像への没入感を高めるための仕掛けです」

 トムは少し誇らしげに語った。映画への情熱は本物のようだ。

「特にクライマックスの演出は凄まじいですよ。光と音で、観客の平衡感覚を奪うんです。監督はそれを『シャドウ・ゾーン』と呼んでいました」

 彼はそこまで言うと、急に我に返ったように時計を見た。

「いけない、最終確認の時間だ。座席の変更を照明スタッフにも伝えないと……。失礼します!」

 トムは慌ただしく頭を下げ、足早に去っていった。その背中は、重圧に押しつぶされそうに小さく見えた。

 俺は彼の後ろ姿を見送りながら、ふと考えた。彼の言う「人生がかかっている」という言葉の意味。単なる出世欲か、それとももっと深い執着か。


 4


 開場時間が近づき、ロビーは招待客でごった返していた。俺は人混みの中で、再びリサの姿を見つけた。彼女は受付でパンフレットを配っていたが、俺と目が合うと、こっそりと手招きをした。

「どう? 不審者は見つかった、探偵さん?」

「不審者だらけだ。全員が容疑者に見える」

「あはは、違いないわ。特にあの助監督のトムくん、可哀想よね。さっきもトイレで泣いてるのみちゃった」

「トイレで?」

「ええ。男子トイレから出てきた時、目が真っ赤だったわ。……彼、本当に映画が好きなんだけどね。ハドソン監督に才能を搾取されてるって噂、本当かも」

 リサは声を落とした。「実はね、脚本の大部分、トムくんが書いたって話もあるのよ。でもクレジットは監督の名前だけ。ひどい話でしょ?」

 それは初耳だ。もし事実なら、トムの動機は、単なるパワハラへの恨み以上に深刻なものになる。才能の強奪。クリエイターにとって、それは魂を殺されるに等しい。

「……貴重な情報だ。ありがとう、リサ」

「いいのよ。あ、そろそろ開場だわ。頑張ってね、ボーンスリッピーさん」

 彼女は俺の異名を知っていたのか。ウィンクを残して仕事に戻る彼女を見ながら、俺はこの劇場に渦巻く情念の深さを改めて感じていた。


 いよいよ試写会が始まった。ハドソンは、急遽変更された通路側の席――ステージに向かって左側のブロック、最前列から数えて五列目の端――にふんぞり返るように座っていた。俺はその二列後ろ、通路を挟んだ反対側の席を確保した。ここならハドソンの背中と、彼に近づく不審な動きを監視できる。

 映画『シャドウ・ゲーム』は、陰鬱だがパワフルな作品だった。光と影、表舞台と裏舞台、成功者と敗北者の対比が、強烈なビジュアルと音響で描かれていく。トムが言っていた通り、床下からの重低音は内臓を揺さぶり、不安感を煽る。


 そして、物語はクライマックスへ突入した。

 スクリーンの中の主人公が、絶望の淵で叫び声を上げる。それに呼応するように、劇場内の照明がすべて落ちた。非常灯すらも消え、完全な漆黒が支配する。

 同時に、耳をつんざくような不協和音と重低音が劇場全体を包み込んだ。

 ドォォォォォン……!

 床が震え、身体が浮き上がるような感覚。上下左右の感覚が曖昧になる。隣の席の観客の息遣いすら聞こえないほどの轟音。視界はゼロ。自分の手のひらすら見えない。

 これがハドソンの仕掛けた『シャドウ・ゾーン』か。

 俺は座席の肘掛けを強く握りしめた。この状況、警護にとっては最悪だ。誰もが盲目になり、聴覚も奪われる。もし犯人が動くなら、この瞬間しかない。


 俺は目を凝らしたが、闇は濃密で何も見えない。ただ、床から伝わる振動だけが頼りだった。

 ズン、ズン、ズン……。

 映画の演出による振動に混じって、何か別の、不規則な振動が床を伝った気がした。誰かが通路を歩いている? だが、この轟音の中で、足音など聞こえるはずもない。方向感覚すら怪しい中で、正確に移動できる人間がいるのか?


 約二十秒。

 永遠にも感じられた闇と轟音の時間が終わり、スクリーンにスタッフロールが流れ始めた。場内が薄明かりに包まれ、観客からは安堵の溜息と、やがて拍手が巻き起こった。


「素晴らしい演出だ!」

「ハドソン監督、ブラボー!」


 喝采の中、俺はハドソンの席を見た。彼は座ったまま動かない。感動に浸っているのか?

 いや、違う。

 彼の首が、不自然な角度で傾いている。

 そして、その胸元には、白いシャツを赤く染める染みが広がっていた。


「……監督?」

 近くにいたスタッフが異変に気づき、声をかける。返事はない。ハドソンの体はゆっくりと前のめりになり、そのまま床へと崩れ落ちた。


 悲鳴が上がった。

 拍手は瞬く間にパニックへと変わり、劇場内は混沌に包まれた。

 俺は人波をかき分け、ハドソンの元へ駆け寄った。脈を確認するまでもない。心臓を一突き。即死だ。

 あの絶対的な闇と轟音の中で、犯人はどうやって正確に彼の心臓を狙ったのか? そして、誰にも気づかれずに席まで移動し、戻ることができたのか?

 俺は振り返り、混乱する観客と関係者たちを見渡した。

 その視線の先に、青ざめた顔で立ち尽くすトム・ミラーの姿があった。

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