第10話 エピローグ
砂時計の砂は、貰った時の20分の1も残っていない。 遡れるのはせいぜい2分弱、といったところだろう。 洋子は手のひらでそれを確かめながら、机に置かれたノートに目を落とした。 頁には、数日間にわたる観測記録がぎっしりと書き込まれている。 〈観測記録〉 〈時間遡行の実験〉 〈干渉の代償〉 ──その文字列の間に、青い砂の流れ落ちる感覚だけが残っている。
深く息をつく。 数時間前、あるいは数日か——正確な時間感覚さえ曖昧だった。 青の記録層の中で漂った体験、無音の空間で見た粒子の光景、無数の過去の瞬間の記録—— 思い出すと、現実感は淡く、しかし確かに自分の中に刻まれている。 手のひらの砂は、すべてを象徴するかのように微かに揺れ、光を反射した。
外の世界は穏やかに見える。 月光が窓の外で青白く揺れ、夜の空気が静かに動いている。 しかし、どこかが違う——その微細な差異に洋子は気づく。 机の上のペンの位置、時計の針の角度、光の反射の角度。 それらは以前と完全には一致しない。 世界は戻ったが、再構築され、微妙に異なる“現在”として存在している。
砂時計の青を指先でなぞる。 粒子はもうほとんど残っていないが、微かに光を帯び、透き通るように揺れている。 手の中の冷たさが、世界の記録と自分の意思のつながりを伝える。 ——これが、時間遡行のすべての結果だ。
洋子はノートを閉じ、立ち上がる。 部屋の空気を吸い込み、視線を窓の外に向ける。 夜空に浮かぶ月は、かつてと同じように青く輝くが、その光にはどこか柔らかさが加わっている。 静かな風が髪を揺らし、砂時計の残りの青が掌の中で微かに震える。
あの夜、公園で手に入れた砂時計、そして“彼ら”の存在。 すべてが現実のようで、しかし幻のようにも感じられる。 握りしめた砂時計は、確かに存在する証拠だ。 それがなければ、あの奇妙な時間遡行を信じることはできなかっただろう。
彼女は呟く。 「彼らにまた会えるだろうか……」 声は小さく、夜の静寂に溶けていく。 しかし、その問いには答えがない。 世界は戻ったが、青の粒子の存在は、まだ遠くに息づいている。
机の上で砂を見つめるうちに、洋子は思う。 もう一度使うことはできる。 残りはわずかで、せいぜい2分弱。 それでも、手のひらに感じる重みは、これまでの経験すべてを象徴していた。 使えば、また世界の局所が書き換えられる。 しかし今は、流れを受け入れる時だと、直感が告げる。
息を整え、砂時計を机の上に置く。 掌から砂の微かな振動が伝わり、青い光が静かに揺れる。 過去を変える力は消耗し、現実は安定しつつある。 それでも、世界のどこかに微細な変化は残る。 記録層の粒子は、消えたものも含め、別の層で生き続ける。
洋子は窓際に移動し、夜空を見上げる。 思い出すのは、砂時計を手にしたあの夜の奇妙な光景。 光の粒が舞い、空間に漂い、そして掌に落ちた瞬間。 それは彼女に、時間の不確かさと、世界の多層性を示した。
「もう、干渉はやめよう……」 声に出して決意する。 手に残る青い粒は、観測と干渉の痕跡であり、 女が経験したすべての証拠でもある。 しかし、流れを受け入れることを選んだ今、世界は安定を取り戻す。
砂時計を見つめながら、洋子は自分の心を整理する。 消えた同僚たち、取り戻せなかった瞬間、繰り返された遡行。 すべては経験として刻まれ、ノートの頁と手の中の青に残る。 再構築された世界は、かつての世界と異なる微細な色合いを持ち、 彼女の意識もまた、それに適応している。
夜が深まる。 月光が青を帯びた砂に反射し、粒は静かに揺れる。 洋子は砂時計を手に取り、最後の光を見つめる。 ——これで終わりだ。 世界は穏やかに見えるが、記録層の青は、まだ遠くで息づいている。
して、微かに粒子が光を増す。 その光は、まるで次の瞬間を誘うかのように、彼女を包む。 視界が青に染まり、体がふわりと宙に浮くような感覚。 風の音も、月光の冷たさも消え、世界は光に吸い込まれる。
洋子は小さく息を吐き、青い光に包まれた。 世界の記録層と現実の境界は消え、 彼女は次の観測者として、あるいは新たな記録の主体として、光の中に吸い込まれていった。
透き通るような粒が、最後の輝きを放ち、世界は静かに息をつく。 すべてが終わり、すべてが残る。
砂時計の砂は微かに震え、夜の静寂に溶けるように光を揺らす。
その青は、世界の遠くで息づくかのように、柔らかく瞬きながら漂う。
——そして、その青は、名も知らぬ夜の公園で微細な光を放ち始めるのだった。
了
青の砂時計 唯野眠子 @tadano-neko
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