第9.5話 青の記録層 ― “時間の裏側”にある世界

砂時計を最大遡行させた瞬間、洋子は物理世界から切り離された。空間も時間も形を失い、ただ無数の青い粒子だけが漂っている。粒子は過去の断片を抱えた記録そのもので、倒れたコーヒー、笑う自分、書きかけのノートが順序も因果もなく浮かび上がる。洋子は観測者であると同時に干渉者として存在し、手を伸ばせば粒子を撫で、世界の局所を書き換えることができた。

この層に触れられる者は限られている。洋子は意識を集中させ、消えた同僚の粒子を選び取ろうとする。しかし、ひとつを再生すると別の記録が薄れ、誰かの存在が揺らぐ。観測と干渉は常に代償を伴い、粒子は砂時計の砂と同質の“記録物質”として有限で、使えば位置が変わり、世界がわずかに書き換わる。

粒子は連続した過去を保持せず、独立した瞬間として層内に散在している。観測者の意思がそれらを結びつけ、流れとしての時間を形成する。洋子が一粒を動かすたび、複数の因果が微細に揺らぎ、層全体が震えた。これこそが遡行の副作用であり、だから現実は「戻る」のではなく「再構築される」のだと、洋子は理解していく。

やがて彼女の意識も粒子に同化し始めた。自身の存在すら観測対象となり、消えた同僚の残滓や修正された世界の痕跡が透けて見える。層は階層構造ではなく、多層の情報が球状に漂い、任意の粒子を選べばその瞬間が現実のように再生される。別の層は静止したままで、時間の概念は相対的だった。

粒子には、砂時計を手に入れる前の世界の断片すら含まれていた。失われた存在も、上書きされた現実も消滅したわけではなく、観測されない限り層の深部で静かに保存されている。干渉者がアクセスしさえすれば、いつでも呼び起こせる。

だが砂時計の残量はわずかで、遡行を続ければ粒子はさらに減り、現実は大きく揺らぐ。残りを使い切れば、一度だけ世界を完全に巻き戻せるが、その再構築は必ず微妙な差異を生むだろう。誰かを救えば、別の誰かの記録が薄れる——この層では、選択は必ず犠牲の起点となる。

洋子はひとつの粒子に触れた。「砂時計を受け取る前夜」の断片である。そこにはまだ観測されていない“差異”が残っており、それが彼女の戻る先の現在を決定する。意識を重ねた瞬間、粒子が光り、層全体が吸い込まれるように変位し、外界への道が形成された。

青い粒子は淡く輝きながら沈み、記録層の法則が静かに閉じる。選択によって世界は再構築され、彼女の存在もまた層の一部へ融合しつつ、外界に微細な痕跡を残した。青い輝きは静まりながらも呼吸するように脈動し、現実の支えとして揺らめいていた。

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