第9話 最後の零時界

部屋は静まり返っていた。
砂時計の青は残りわずかで、粒は数えるほどしかない。
洋子は両手でそれを抱え、深く息をついた。
——これが最後のチャンスだ。

すべてを元に戻すためには、残された砂を使い切らなければならない。
手が震え、胸が詰まる。
しかし、心の奥底で確信していた。
これが唯一の方法だと。

彼女は砂時計をひっくり返した。
青い粒が落ち始め、部屋の空気がゆるやかに震える。
時間の流れが、逆に引き戻される感覚。
——昨日でも、一昨日でもない、もっと前へ。

光が微かに揺れ、机や椅子の輪郭がわずかに溶ける。
音が遠のき、時計の針が逆回転する。
呼吸のリズムも、体内の血の流れも、まるで逆行しているようだ。

——最初に彼らと出会った夜まで戻る。

記憶の中の光景が、現実と重なる。
あの夜、公園の木々の間から舞い落ちる奇妙な光の粒。
掌に握った、透き通るコバルトブルーの砂。
そして、現れた輪郭の定まらない存在たち。

洋子は目を閉じ、すべての感覚を集中させた。
粒子の流れが指先をかすめ、空間全体が青く輝く。
視界の端で、世界の層が薄く揺れ、現実と記録層の境界が溶けていく。

——ここまで戻っても、何も変わらない。
青の砂はまだ落ち続け、過去の記録は次々と再生される。
洋子は手を広げ、粒子の中に身を任せる。

その瞬間、声が響いた。
──君が選んだ。
響きは空間全体を満たし、言葉ではなく波として伝わる。
洋子は息をのむ。
「選んだって……どういうこと?」

──私たちは導いたに過ぎない。
──選択したのは、君自身。
──干渉の結果、すべての因果が決まった。

光の存在が、揺らめく青の粒の間に浮かぶ。
輪郭は曖昧だが、確かに意思を持つ存在であることが分かる。
洋子の心の奥に、冷たい恐怖と熱い興奮が同時に走る。

——私は、自分で選んだのか。

彼女は指先で砂の流れを止め、わずかに握った。
青い粒は手の中で光を帯び、まるで世界そのものを宿すかのようだ。
すべての記録が、この掌の中に集まる感覚。
瞬間、世界のすべてが彼女の意識に連動した。

砂を落とすたび、過去が巻き戻り、失われた記憶が呼び起こされる。
しかし、前と同じ過去は二度と現れない。
小さな揺らぎが重なり、世界は微妙に異なる形で再構築される。
——だからこそ、犠牲もまた変動する。

洋子は気を失う寸前まで砂を操作した。
指先に残る感触、掌の中で光る青の粒、世界の輪郭がゆがむ感覚。
すべてが一体となり、彼女は無音の中に漂った。

そのとき、視界が急に変わる。
公園の木々、夜の空、舞い落ちる光の粒——
すべてが最初の夜のまま再現されていた。
——しかし、違和感がある。
空気が少し重い。光の粒の動きが、以前より遅い。
世界は戻ったが、完全には元に戻っていない。

彼女はそっと砂時計を握り、青い砂を見つめた。
残量はほとんどなく、あと数分の遡行しかできない。
砂は青い光を帯びて、透き通るように輝く。
——あの時の感覚が、まだ掌の中に残っている。

洋子はそっと呟く。
「これで……本当に戻ったの……?」

青の粒が微かに震え、わずかに光を放つ。
彼らの存在は、姿を現さない。
——けれど、確かにそこにある。
自分が砂時計を握る限り、記録層は反応し、世界は彼女の選択に連動する。

呼吸を整え、部屋の明かりに目をやる。
机、椅子、時計——すべてが元通りに見える。
しかし、どこかが微かに違う。
空気の匂い、光の角度、時計の針の回り方。
ほんのわずかに、以前の世界とは異なっている。

洋子は砂時計を握り直し、最後の砂を掌で包んだ。
——もう使うことはできない。
残りの青は、観測されることを待つだけだ。
彼女は息を吐き、机の上にそっと置く。

窓の外を見上げると、月光が青く淡く輝く。
世界は静かに呼吸しているようだ。
あの夜の出来事、砂時計、青の干渉者——すべてが、記録として残る。
そして、すべては彼女の選択によって決まったのだ。

洋子は静かに立ち上がり、深く息を吸う。
心の奥底で、確かな覚悟が芽生えていた。
——これからは、観測者ではなく、記録を受け入れる存在として生きる。
——時間を流れとして受け入れ、干渉を止める。

青い砂が微かに光を放ち、静かに残量を告げる。
その光は、決して消えることはない。
——そして、彼らの存在もまた、確かにそこにある。

洋子は砂時計に手を添え、静かに呟く。
「ありがとう……そして、さようなら……」

掌の青が淡く光を放つ。
世界は元に戻り、しかし少しだけ異なる“現在”が存在している。
すべての選択が記録され、失われたものもまた、別の層で生き続けるのだ。

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