第4話 信頼


 

 二人が逃げ込んだ舟小屋は、川岸に斜めになって建っていた。壁は苔むし、屋根の半分が崩れて陽光が室内に降り注いでいる。古い蒸気パイプが絡まった壁もボロボロだ。錆びた継ぎ目から微かに水滴が落ちる度にピチョン、ピチョンと音をたてていた。

 小屋の中には壊れた舟の舳先や折れた櫂が積み重なり、隅に積み上げられた古い麻袋からはカビ臭いにおいが漂っている。壁に打ち付けられた竹板の隙間から、川の水音と奴隷商の遠ざかる叫び声が聞こえてきた。

 床にはかつて舟を動かしただろうゼノクリストの欠片が転がってる。その昔ここで舟の修繕が行われていたのだろうが、今はなんの役にも立たない廃墟と化していた。

 

「し……死ぬかと、思った……!」

「……大丈夫か?」

「大丈夫な訳ないだろ……」

 

 舟小屋の中、壁に背を預けて深い深いため息を零した。彼に担がれてのアクロバットはなかなかスリリングで刺激的なものだった。もう二度とごめんである。心臓がもたない。寿命が縮んだのではないかと錯覚する程だった。


「それにしてもボロい小屋……」


 顔の前で手をパタパタ振ってみたけれど、埃臭さは改善されそうにない。諦めてまた一つ息を吐き出すと、自分をここに連れ込んだ男に視線を向けた。

 

(……改めて見るとボロボロだな)

 

 チロルの周りにいる獣人達は皆、華やかだ。舞台に立つバニラ達キャストは勿論のこと、チロル同様裏方として働くスタッフ達だって表情はイキイキとしいて活気に溢れている。見た目の華やかさではなく、彼等には生きる力強さを感じさせる目の力があった。


 だが目の前に立つ彼は、そんなチロルの近くにいる獣人達とは全然違っていた。

 瞳に力はなく、尻尾の毛並みも悪い。まるで野犬のようなひりついた冷たい空気を纏っている。本来ならば体格も良いだろう体はやつれ、あちらこちらに鞭で打たれた傷が目立った。掛けられた枷が擦れたのだろう、首筋も赤い血が滲んでいるのが分かる。

 

「お前……あー……名前は?」

「ねぇよ」

「は?」

「だから、ねぇって。何度も言わせんな」

 

 そう言って彼は視線をふっと逃がした。

 

(……まあ、そういう事もあるか)

 

 彼がこれまでどんな半生を歩んできたのかは分からない。だが理不尽に奪われるばかりの人生の中で名前すら持つ事が出来なかったと言われても、あまり衝撃はなかった。実際に名前を持たないままシルクスに入団した団員は過去にもいたのだ。

 

「お前ってのも味気ないし、名前が無いと困るよな」

「……はァ?」

 

 訝しむような視線を向けられたが、チロルは気にする事なく顎に手を当てて「うーん」と考え込む。過去に目にした小説、台本、演劇から何かないかと探ってみる。

 

「じゃあ、オルト」

「オルト……?」

「昔読んだ本に出てきたオオカミの名前だよ。お前の耳、オオカミっぽいじゃん? オルト……何とかって名前だったから、オルト」

「……適当じゃねぇか」

「不満があるなら他にも案出すぞ。そうだなぁ……ロボ、アッシュ、ファング、ルディ……あとは……」

「いや、もう良い。もう良い。お前の好きに呼んでくれ」

「じゃあ勝手に呼ばせてもらうよ、オルト」

 

 小さな溜息を零すと奴隷の獣人改めオルトは、興味もなさそうに壊れた舟に視線を向けた。


「名前になんの意味があるんだ」


 呆れた様子で零す彼に、チロルは「名前は個を示すんだって」と返した。


「個……?」

「例えば家畜の豚は、沢山いて替えもきく豚でしかないだろ? でもそこに名前を付けたら、その子は唯一になる。だから名前が必要なんだって」

「……それなら別に、オレにだって名前はいらないだろ」

「ボクはこうしてお前と出会っちゃって、もう通りすがりに見掛けた獣人奴隷の一人としては見れないから。ボクの中でお前が『個』になっちゃったから、名前が必要なの」


 そう言うと彼、オルトは摩訶不思議な物でも見るような視線をチロルに向けてきた。


「なあオルト、やっぱり1回ウチに来いよ」

「奴隷を辞めて、今度は見世物にでもなれってのか。それならまだ、採掘場で働く方がマシだ」

「舞台に立つだけがサーカスじゃないよ。言ったろ、ボクは裏方。それにギム……ウチの座長ならお前を自由に出来るかもしれない。何か知恵を貸してくれるはずだ」

「自由って……」

「オルトを縛る重たい枷、ギムならきっと外せるんだ」

 

 自由になろう。そう伝えるとオルトの何も写そうとしなかった黄金色の瞳が僅かに揺らいだのが分かった。

 

「凄いんだよ、ウチの団長は」

 

 どうか、どうか伝わって欲しい。自分は彼から何もかもを奪おうとする人間達とは違うんだって、伝わって欲しい。そんな思いからチロルはそっとオルトの右手に手を伸ばした。

 

「人間のボクを信じられないのは分かるよ。でもうちの団長の話聞くまでの間で良いから、耳貸して」

「……それで? オレを自由にして、アンタになんのメリットがあんだよ」

「明日美味い朝飯が食える……とか?」

 

 白い歯を見せた後で、チロルは二藍色の瞳を手元まで伏せた。

 

「ボクはさ、生まれた時から獣人に囲まれて暮らしてんだ。人間の社会で暮らした経験は無い。育て親が獣人だからね」

「……」

「確かにボクには大きな耳も尖った牙も爪もないけど、自分の心が人間よりも獣人の近い所にあればいいなって……そう思ってるよ」

 

『舞台に立てるから』

 それだけが理由じゃない。チロルはずっと獣人に憧れてきた。被差別側の自分がそんな事を思うこと自体烏滸がましい事は分かっている。だけれどチロルはただ単純に家族と同じになりたかった。

 

「父に誇れない自分にはなりたくない。それがボクのプライドだ。言ったろ。ボクの中でもうお前はその他大勢じゃなくなっちゃったんだ」

 

 爪も牙もなくても、それだけは譲れなかった。

 

「……分かったよ」

 

 掌の中でオルトの右手から少しだけ、力が抜けたのが分かった。

 

「アンタを信用するよ」

 

 彼の言葉を理解するまでに数秒。その意味をしっかり受け止めると、チロルの表情がパッと明るくなった。

 

「ありがとう……!」

「そうと決まれば早速移動を……」

 

 しかしながらそこで、オルトが口を噤む。視線を小屋の外に向けているのが分かった。出会ったあの路地で、迫り来る追っ手の気配に気が付いた時と同じような表情を彼はしていた。

 

「あの小屋は?」

「使われなくなった舟小屋だ。中を確認しておくか」

 

 聞こえてきた追っ手の声に、小屋の外に向けられていたオルトの視線がチロルの方へと向けられる。

 

(あ、ダメだ……)

 

 そのどこか諦めを帯びたような瞳に、チロルは慌てて手に込める力を強めた。

 

「待って! 一緒に行くっていったろ……!」

「……追っ手を撒いてくるだけだ。人気がなくなったら、あの路地で待ってろ」

 

 くしゃりと無骨な掌に頭を撫でられる。鱗の生えた父のそれとは異なる、でも自分よりも遥かに立派な爪の生えたふた周り大きな無骨な掌。

 非力なチロルの力では彼をこの場に留める事は叶わない。そして何か今すぐに現状を打開する手段を持ち合わせているでも無かった。

 

「待……ッ」

 

 チロルの制止も聞かずに、オルトは舟小屋の外に飛び出していってしまった。ほんの一瞬の出来事だった。

 

「いたぞ、アイツだ!」

 

 すぐさま聞こえてきた男達の怒号。川を飛び越えて走り去るオルトの気配は、直ぐに遠くに離れていってしまう。

 

「分かりやすい嘘つくんじゃねぇよ……馬鹿野郎……ッ」

 

 小屋の中でチロルは一人、拳を握りしめる事しか出来なかった。きっとオルトはチロルに嘘をついている。彼は路地に来るつもりなんてない。チロルをこれ以上巻き込まないために一人で自体をどうにかしようとしているのだ。


 小屋の外からヒトの気配が無くなったのを見計らってチロルは外へと飛び出した。自分一人でオルトを助ける事は出来ない。シルクスの助けを借りなくて。

 

(待ってろよ、オルト……!)

 

 高く鳴りだした昼間の陽光が降り注ぐ。薄汚れた川面に反射する光がとても皮肉めいて感じられた。

 


 

 息も絶え絶えになりながらチロルはマチを走り続けた。やっぱり晶駆車そうくしゃを用意しておけば良かったと今更後悔しても意味が無い。一刻も早く事態を知らせるために、ぜぇぜぇと息を荒らげながら前に前にと足を動かした。こういう時に獣人のような身体能力があればと、何度己の身体を呪ったのか分からない。

 

 シルクスのテントが目前に近付いてきた頃、蒸気車スチームワゴンのタイヤのゴロゴロいう音が背後から迫ってきた。

 まさか追っ手かと慌てて振り返ったチロルだったが、背後から近付いてくるそれは見覚えのある車体をしていた。わざとらしい華美なデザインと、背面に刻まれたロゴマーク。シルクス所有の蒸気車スチームワゴンだ。

 

 肩で息をしながら見慣れたワゴンに目を向けていると、運転席から身を乗り出したのはクリーム色の髪をした兄だった。

 

「何してんだよ、もう昼公演マチネ始まるぞ!」

 

 見知った顔が視界に入った事で、張り詰めていたチロルの緊張の糸が緩む。

 

「バニラ……ッ」

「お、おい。どうした?」

「どうしよう、ボクのせいでアイツ……オルトが……!」

「何だよオルトって」

 

 ワゴンから降りてきたバニラは、チロルの切羽詰まった様子にただただ困惑するばかりだ。

 

「奴隷商に捕まってて……ボク助けようとしたのに、アイツ一人で逃げちまって……!」

「あー! 分かった分かった! ゆっくり、最初から話してみな」

 

 しどろもどろになりながらも何とかチロルはこれまでにあった事をバニラに話して聞かせた。黙って話を聞いていたバニラは「まずは団長に話をしよう」とチロルを助手席に座らせると、そのままシルクスに向けて蒸気車スチームワゴンを走らせた。

 

 

 

 シルクスに到着するとバニラは直ぐにチロルをギムの元へと連れて行った。ギムはちょうど、自身のトレーラーで何やら書類仕事をしながら、ダンサーであるフランと話をしている最中らしかった。

 

「団長、緊急事態です!」

「どうした、バニラ」

 

 低く、厚みのある声が響いた。

 書類をデスクに置くとギムが立ち上がる。

 

 チロルやバニラの育て親であり、シルクスを率いる団長である明星ギム。黒に近い緑がかった光沢のある鱗と、トカゲを思わせる表情に乏しい顔立ち。皮のコートを纏った寡黙な佇まいは、華やかで騒がしいシルクスの中で異様な威厳を放っている。

 

「チロルの知り合いが奴隷商人に捕まったそうです。助けてやりたい」

 

 バニラがチロルから聞いた話をギムに話して聞かせる。

 

「ギム、どうしよう……ボクのせいでアイツが……」

 

 二人の話を静かに聞いていたギムは顎に手を当てて「成程」と一言呟いた。

 

「それならば恐らく川を下って採掘場に向かうだろう。バニラ、チロル。行くぞ」

「ああ、でも団長。もうマチネ始まっちまうし、俺が穴を開けるのは……」

「何言ってるの」

 

 話を聞いていたフランがバニラの背中をポンと叩いた。

 

「それくらい私がどうにかするわ。バニラはチロちゃんについててあげて」

「すまねぇ、恩に着る!」

「フラン……ありがとう」

 

 フランはチロルに向かって柔らかな笑みを浮かべると、パチリとそれはそれは妖艶なウインクをしてみせた。

 

「フラン、団員達にもこの件を伝えておけ」

「承知したわ。こっちは任せて頂戴」

 

 トレーラーを後にして三人は蒸気車スチームワゴンに乗り込んだ。チロルから聞いた例の舟小屋近辺の位置取りからオルトの現在地を予測し、ギムがワゴンを走らせる。

 後方に流れていくマチ並みを見ながらも、ギムの鱗に覆われた腕がハンドルを握る隣でチロルは堪らず拳を握りこんで目を伏せた。

 

「大丈夫だチロル」

 

 そんなチロルに、バニラが後部座席から声を掛ける。

 

「俺達には団長がついてる」

「……うん!」

 

 バニラの言葉にチロルは首を縦に振ると、真っ直ぐに前を見据えた。

 

 オルト、どうか無事でいて。どうか、間に合って。

 三人を乗せた蒸気車スチームワゴンは、蒸気をふかしながら川沿いを駆けてゆく。オルトはもうマチを出てしまったのだろうか、間に合わなかったらどうしよう。そんな不安感が心を覆い、心臓が早鐘を打つ。

 

「見付けた、あの舟だ!」

 

 もうカワセミマチを抜けてしまいそうな所まで来てようやく見つけた。

 チロルが指を差した先にはオルトを初めて見た時、彼が荷降ろしをさせられていたあの川舟があった。舟の煙突からは黙々と白い蒸気が立ち込めている。

 

「ギム!」

「任せろ……!」

 

 ハンドルを握るギムの手に力が篭もる。アクセルが踏み込まれ、パイプがより一層煙をふかした。

 

「オルト……!」

 

 その隣でチロルはあの黒いオオカミの無事を祈り、握った拳にまた力を込めた。

 

 

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