第3話 逃亡者



 市場を訪れたチロルはまずバニラの衣裳に使用するぼたんを探した。以前使用していた物と全く同じ物は見つからなかったものの、納得がいく物を見つける事が出来て少しばかり彼女の心が晴れる。

 

(あと買っておきたいのは石鹸に、釘、それから……)

 

 あれにこれにそれにと考えているうちにチロルの手元にはどんどん荷物が増えていく。気が付けば両手いっぱいの購入品を抱えて、チロルは市場の隅で立ち尽くしてしまった。

 

「やっぱり晶駆車そうくしゃ、持ってくれば良かったかな……」

 

 釦だけを買いに来たはずなのにいつの間にこんな事になってしまったのか。足を用意すれば良かったと後悔するが、今更そんな事を言っても仕方がない。獣人程のパワーは無いけれどチロルだってサーカス団の裏方として力仕事をこなしてきたのだ。それなりに腕力も体力もある。

 諦めて荷物を持つ腕に力を込めると、サーカス団のテントに続く帰路を歩き出した。

 

(地形からして、ここ通ったらショートカット出来るんじゃない?)

 

 視線の先にある細い路地のを見て立ち止まる。頭の中の地図を信用するのなら、恐らくこの路地を通り抜けた方が近道になるはずだ。荷物も増えてしまったし少しでも楽な道で帰ろうと、路地を曲がったその時のこと。

 

「な……ッ」

「うわっ」

 

 目の前に大きな黒い影が飛び出してきた。止まる事も出来ず、チロルは目の前のそれと正面からぶつかってしまう。

 買ったばかりの釘がキンっと高い音を立てて敷石にぶつかった。

 

「あでっ!」

 

 バラバラと買ったばかりの荷物が辺りに散らばり、勢いに押されてチロルもその場に尻もちをついてしまう。

 

「おい!何処どこ見て……」

 

 文句の一つでもぶつけてやろうと視線を上げたチロルだったが、目の前に立つそのヒトの姿に言葉を失った。

 

「お前、さっきの……」

 

 そこには先程、川舟で積み荷を運んでいた獣人が肩で息をしながら立っていた。

 オオカミのような大きな耳が目に付いた。星空を溶かしたような青みがかった黒い毛並み。その下に並んだ黄金色の双眸がこちらを見下ろしてくる。

 左の頬に刻まれた大きな傷跡が痛々しい。首にはあの、重そうな鉄製の枷が掛けられたままだった。彼の様子を見て「どうしてこんな所に」なんて考える程、彼女は間抜けではない。

 

「これ……っ!」

 

 チロルは自分の腰に巻いていたオーバーサイズのパーカーを脱ぐと、すぐさま目の前の男に被せる。そのまま頭を押し込むようにして、その場にしゃがみ込ませた。

 

「何を……ッ」

「静かに!」

「奴隷が逃げたぞ! 探せ、探せ!!」

 

 チロルの予想通り、路地の奥から複数人の男の怒声と足音が聞こえてきた。

 

「荷物拾うフリしろ。顔上げんなよ」

 

 男らの気配に慌てて立ち上がろうとした男の頭を無理やり抑え込むと、チロルはコホンと小さく咳払いをした。

 

「奴隷の分際でワタシの荷物を落とすなんて。何を考えているのカシラ? 良いから早く拾いなさいヨ!」

 

 腕を組み、周囲に聞こえるようこれみよがしに大きな声でそう言った。カタコトな演技力に関してはご愛嬌。

 傍目に見れば荷物を落とした奴隷を主人が叱り付けているように見える事だろう。おまけに彼の上半身はチロルが渡したパーカーで隠れているため、遠目に少し見た程度ならば誤魔化しがきくはずだ。

 

(いつものメイクで来なくて正解だったな……)

 

 いつもの獣人を模したファッションであればこんな風に取り繕う事も出来なかっただろう。心情は複雑だが、コンプレックスである人間としての容姿が役に立った。

 

「こっちにはいねぇぞ」

「クソ……何処行きやがったんだあのクソ犬が!」

 

 男らの足音が遠ざかるのを確認すると、チロルはふぅと深く息を吐き出した。平静を装いたかったが、体の内側では心臓が早鐘を打っている。なんとか誤魔化せたようで良かったと胸を撫で下ろすとその場にしゃがみこみ、散らばった荷物を集め始めた。

 

「悪いな、急に頭抑えちゃって」

 

 オオカミのような耳を持つ男はじっと身動ぎ一つせず、まだ辺りの気配を探っているようだった。その間にチロルはテキパキと落下物の回収を進めていく。

 

(そう言えば二、三日蒸気車スチームワゴン走らせた所に、クロツメ採掘場があったな)

 

 あの首輪を嵌められた状態でどうやって逃げられたのかは分からないけれど、男らの発言や初めて彼を見た時の様子、それから今の状況。どれを照らし合わせても目の前の男は奴隷船から逃げ出してきた獣人奴隷と見て間違いないだろう。

 

(あの釘で最後かな)

 

 路地の奥に転がってしまっていた釘を拾おうと体を傾け、手を伸ばしたその時の事だった。

 

「わ……ッ」

 

 ダンっと鈍い音が路地に響くと同時に、チロルの背中に衝撃が走った。


「……ッ!」


 伸ばした右手を捉えられ、背後の民家の外壁に背中を叩き付けられた。突然の事に呼吸を詰まらせながらも目を開くと、目の前には大きな胸板が広がっている。

 チロルを壁に押さえ付けているのは先程助けたオオカミだった。

 

「何のつもりだよ」

 

 低い声で彼はそう言った。自分を不当に扱ってきた人間への激しい憎悪の色で塗り固められた声。こちらを射抜く黄金色の瞳にも同じ色が乗っている。

 

(ああ……)

 

 良く、とても良く知っている目だった。

 ギリリと喉の皮膚が軋む。小刀のように長い爪が喉笛にくい込んだ。彼がその気になれば、小枝でも折るような要領でチロルの首は折られてしまう事だろう。

 

「人間がわざわざ奴隷を助ける訳がないだろってか?」

 

 怯えるでも狼狽えるでもはなく、ハッと鼻で笑うチロルに相手は面食らった様子だった。

 

「ボクの名前はチロル。獣人サーカス団【シルクス】で裏方をやってる」

「は……?」

「ボクの家族は獣人だ。だから咄嗟にお節介焼いた」

「人間と獣人が家族……?」

「うちの家族には元奴隷も多いんだよ。だから見てられなかったの」

「……」

 

 彼はまだ納得がいっていない様子だったが、これ以上チロルに時間を使うのは無駄だと考えたのだろう。チロルを解放し被せられたパーカーを脱ぎさり放って寄越してくると、そのまま立ち上がり何処かへ歩いていこうとする。

 

「ちょっと待てよ。何処行くんだよ」

 

 ふらりとその場を離れようとした獣人を、チロルは慌てて呼び止めた。

 

「まだオレに何か?」

「何処行くだってこっちが聞いてんだ。質問に質問で返すな」

「……アンタには関係ないだろ」

「あのなぁ、お前みたいなのが一人ふらふら歩いてたって採掘場行きが関の山だぞ」

「仕事を見つけりゃ問題ねぇ」

「まともな仕事が見つかるんだったら、世の中の獣人達はこんなに苦労しちゃいないよ」

「…………法律があったろ、奴隷は禁止だって」

「十年前に可決された獣人奴隷禁止法の話? あんなもん、抜け道が黙認されてて殆ど意味ないお飾り法律じゃん。そうじゃないんなら、なんでお前あんな所で働かせられてたんだ」

「……」

 

 あ、このヒト放置してたら死ぬかもしれない。

 そんな考えがチロルの脳裏を過る。

 

 勿論シルクスにだって無限のゆとりがある訳ではない。逃亡を測った奴隷を匿うリスクを家族に負わせる危険性も理解している。だが目の前のオオカミは警戒心が高い割に隙が多かった。このまま見送ってしまえば死ぬまで使い潰される未来が手に取るように見えてしまう。分かっていてこの状況を見過ごすのはあまりにも目覚めが悪い。


(あの手の『就労業者』なんて大体が違法の人身売買業者だろうから、付け入る隙はあるんだろうけど……ボクは法律とかそんなに強くないし、一人でどうにかなる問題じゃないよな。一旦シルクスに連れて帰ってギムに助けてもらうべきかも)

 

 そうと決まればやるべき事は一つだけ。手を貸す義理はないが、ここで見捨てる理由も無い。乗りかかった船だ。彼を一度サーカス団に連れ帰ろう。

 

「なぁ、この後……」

「しっ」

 

 大きな掌に口を塞がれる。何が起きているのか分からずにキョトンと目を丸くするチロルとは対照的に、彼の纏う空気が一瞬にして張り詰めた。どうやら周囲の音に耳をすませているらしい。チロルも一緒になって音を探ってみるが、何も聞こえてこない。

 

「舌、噛むなよ」

「何……わっ!?」

 

 突然、横抱きに体を抱えられチロルは思わず声を上げる。驚いたチロルの手から再び落ちてしまった荷物が地面にぶつかり音を立てるよりも早く、彼女の体は急激な速度で浮かび上がった。

 

「ひぇ……ッ!?」

 

 自分を抱えた彼が、向かい合った民家の外壁を蹴り上げながら屋根の上まで駆け上がったのだ。それを理解した頃にはもう、チロルの視界の下方に瓦屋根が広がっていた。

 

「いきなりアクロバットかよ……ッ!」

 

 ほんの一瞬の出来事に目を白黒させたチロルは、なんとか振り落とされまいと必死に男の首にしがみつく。突然高所に放り出されたチロルにとって、この男が唯一の命綱だった。

 

「あのワゴン……っ」

 

 屋根の上から見えたのは蒸気車スチームワゴンから立ち上る白い煙だった。こちらに向かってくるそれは恐らく、彼を追う連中のものなのだろう。

 

(全然気が付かなかった!)

 

 遠くの蒸気車スチームワゴンの接近に気が付く鋭い聴覚と、チロルを抱えたまま一瞬にして高所まで駆け上がる高い身体能力。人間であるチロルにはけして手にする事が出来ない、獣人の能力を見せ付けられるようだった。

 だがそんな悠長な事を考えている余裕は、今のチロル達にはない。

 

「屋根だ、屋根の上にいるぞ!!」

 

 屋根の上を走った事で追っ手の目に止まってしまったのだろう。視線の遥か下、あちらこちらから声が聞こえてくる。


「うわッ!?」


 彼はまるで飛び石の上を跳んで走るかのように、瓦屋根の上を飛び越えていった。どんどん後方に流れていく景色に呆気に取られていたチロルだが、自分が置かれている状況に気が付きハッと我に返る。

 

「あっ、ボクの荷物!てかこの後仕事残ってるんだけど!」

「それどころじゃねぇだろ。状況分かんねぇのか? 馬鹿かよ」

「お、お前には言われたくないんだけど!? てかあっち、あっちにボクの家族がいるから!」

「一旦まいてからだ。下りるぞ」

「な、ちょ……ッ」

 

 文句を言うよりも先に身体をふわりと包み込む浮遊感。内臓が持ち上がるような感覚に顔を青くしながらも、それどころではない。言いたい事を置いていく速度で、自分の置かれた状況が刻々と変化してしまう。

 獣人はチロルを抱えたまま屋根の上から飛び降ると、そのままの足で大きな通りに出てしまった。

 

(ちょっと待てよ、大通りって……!)

 

 このカワセミマチは大きなマチとマチを繋ぐ行路の交わる場所となっている。近くにはゼノクリストの採掘場もあるため、行商人の行き来も多い。だからこそ都心部から距離がある割に、このマチのメインストリートは大きなものが用意されていた。


 つまり、交通量はマチの規模にしては多いのだ。

 

「なァっ!?」

 

 チロルの懸念など露知らず、彼は煙を吐きながら交易品を運ぶ蒸気車スチームワゴンの前になんの躊躇もなく飛び出して行った。

 

「……ッ!?」

 

 凄まじい速度で鉄の塊がこちら目掛けて走ってくる。

 最早、目を瞑る余裕すらチロルにはなかった。

 間一髪、紙一重の所で蒸気車スチームワゴンの前を通り過ぎる。ほんのすぐ側に掠めた鉄の塊の気配と、頬を掠めた熱い蒸気の熱にチロルの喉が引き攣った。

 

(走ってるワゴンが、物理的に目と鼻の先……!)

 

 命の危機を感じるような状況に陥ると時間の流れがゆっくり進んでるように感じると聞いた事があったけれど、これの事を言うのだろうか。そんなもの身をもって体感したくなかった。泣き喚くように早鐘を打つ心臓が煩い。

 

「なんだ、獣人か!?」

 

 急ブレーキをかける音や商人達の罵声が背中越しに聞こえてくるが、それ所では無かった。飛び交う声も華麗に無視スルーすると、獣人はチロルを抱えたまま川の方へと走り抜けてゆく。

 

「……っ!」

 

 橋のかかっていない川を易々と跳躍だけで飛び越えると、対岸に掛けられた舟着場に着地をした。竹製の足場が二人分の体重にギシリと音を立てる。

 背後に追っ手の姿は見られない。二人はそのまま使われていない廃墟の舟小屋に身を隠す事となった。


 

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