第1話 重力を知らない二人
標高八百メートル。雲海を見下ろす断崖絶壁の上。
俺、須波レン(スナミ レン)は、慣れ親しんだ眼下の景色に背を向け、育ての親である老人に向き直った。
「行ってきます、爺ちゃん」
「おう。気張ってこい」
短く言葉を交わし、俺は崖から虚空へと身を投げた。
足の裏に魔力を集中させ、高密度の『膜』を作り出す。俺は空中に生み出したその足場を、思い切り踏み抜いた。
――パァンッ!!
空気が破裂するような音と共に、膜が弾け飛ぶ。その強烈な反動を推進力に変え、俺の体は弾丸のように虚空へと射出された。
あっという間に小さくなっていく俺の背中を、崖の上から二つの影が見送っていた。
山の長であり、俺の師匠でもある玄雲(げんうん)と、その側近だ。
「……早いもんですな。あの日、山の中で赤ん坊を拾ってから、もう十五年ですか」
「ああ。あの時は天からの落とし子かと思ったがな」
玄雲はパイプを吹かし、煙を目に染み込ませるように細めた。
「よかったのですか? 彼ほどの才能、忍びの道へ引き込むこともできたでしょうに」
「よせよ。あいつの心は、陽の光そのものだ。陰に生きる忍びの世界には明るすぎる」
玄雲はカカカ、と愉快そうに笑い、付け加えた。
「それに、あいつは致命的に『隠密』が下手くそじゃからな」
「……違いありません」
山中に響き渡るような破裂音を聴き、二人は苦笑した。
そんな山の大人たちの親愛を知ってか知らずか、俺は風を切り裂き、近代的なビル群が立ち並ぶ市街地へと飛翔していた。
春の風には、微かに魔女の因子の匂いが混じる。俺は空気の層を滑るように高度を下げていた。目指すは、街の中心にそびえる巨大な城郭のような校舎――『国立継承院高等魔術学校』。
「ここからなら、あと五分といったところか。」
「ん?」
前方、ビルの屋上を高速で移動する影が目に入った。最初は大型の魔物かと思った。だが、違う。黒髪でショートカットの小柄な少女だ。
彼女は給水塔を足場にし、ロケットのような勢いでビルからビルへと跳躍していた。魔術特有の光(オーラ)は一切ない。純粋な脚力のみでの跳躍だ。
「シンプルな身体能力でアレかよ...。無茶苦茶だな。」
感心して見ていると、突風が吹いた。着地の衝撃で、少女のブレザーのポケットから一枚の紙片がヒラリと舞い上がる。ピンクの小さな紙に文字が印刷されている。
大事な大事な受験票だ。
「あ。」
少女は気づかず、そのまま次のビルへ跳ぼうとしている。紙は風に煽られ、遥か後方へ。俺は瞬時に魔力操作を行った。
足裏の膜を炸裂させ、急加速。舞い落ちる受験票の下へ滑り込み、空中でキャッチし、その勢いのまま、さらに加速して少女を追う。
「おーい!落としたぞ!」
俺が声を張り上げたのと、少女がポケットの違和感に気づいたのは同時だった。
少女が勢いよく踵を返した。猛スピードで追いかけていた俺と、急反転した少女。 正面衝突コース。
「うおっ!?」
「きゃっ!?」
だが、お互いの反応速度は常人離れしていた。
俺は膜をエアブレーキとして展開し、少女は靴底を削るほどの摩擦で急制動をかける。鼻先数センチの距離で、二人は左右に回避した。
少女――泡沫凛は、バックステップで距離を取ると、ジロリと俺を睨んだ。
「な、なによ! 私の後ろをつけてたの!?」
「人聞きが悪いな。追っかけてたんだよ」
「やっぱりストーカー!?」
「違う、これだこれ」
俺は手に持っていた受験票をヒラヒラとさせた。凛はハッとし顔を真っ赤にして勢いよく頭を下げた。
「ご、ごめんなさいぃぃ!!勘違いして!」
「いいよ。同じ受験生だしな」
俺は受験票を渡す。そこには『泡沫 凛(ウタカタ リン)』という名前と、俺と同じ継承院の受験番号が記されていた。
「ありがとう……私、てっきり街中に落ちたと思ってたから、命拾いしたよ。えっと...」
「俺は須波レン。よろしくな、泡沫」
「凛でいいよ! よろしくね、レン君!」
「ねえ、レン君はどうやってここまで来たの? 空、飛べる魔術?」
「飛ぶっていうか、跳ねるんだよ。こうやって……」
俺は足元に小さな『膜』を展開してみせた。膜の中で空気を極限まで圧縮し、破裂させて見せた。
「この膜を踏み抜いて、弾ける反動で加速するんだ。空中に足場を作るようなもんだな」
気づいたら同じ受験生なのに、自身の魔術を開示していた。
「へぇーっ! 面白そう! それ、私にもできる?」
凛が目をキラキラさせて食いついてきた。 好奇心の塊だな。
「まあ、誰でもできるけど……やってみるか?」
「うん!」
俺は彼女の足元に、膜を設置した。彼女は嬉しそうに片足を上げ、思い切りその膜を踏み込んだ。
「いっくよー! せーのっ!」
ドォォォォォン!!!!
破裂音、という生易しいものじゃなかった。爆撃音だ。 俺の膜の反発力に、彼女の規格外の脚力が掛け合わさった瞬間、屋上の空気が悲鳴を上げた。
「えっ……?」
俺が瞬きする間に、凛の姿は掻き消えていた。 目で追うと、彼女は音速に近い速度で水平に射出され、数百メートル先のビルの屋上へ突っ込んでいく。
(おいおい、あの速度じゃ激突してミンチだぞ!?)
俺が青ざめた、その時だ。彼女は空中で体をひねり、ビルの屋上に突き出ていた避雷針に手を伸ばした。
ギャギャギャギャンッ!!
鉄棒の大車輪のように、避雷針を軸にしてグルグルと高速回転。遠心力で凄まじい運動エネルギーを殺しきると、彼女はふわりと優雅にその場に着地した。
「……嘘だろ」
俺は呆然と呟き、慌てて彼女の元へ追いついた。凛は乱れた髪を直しながら、ケタケタと笑っていた。
「あははは! びっくりしたぁ! 止まらなくて地球一周するかと思ったよー!」
「……ハハハ。」
俺は正直、少し引いていた。あの初速もイカれているが、あの一瞬で避雷針を掴んで減速する判断力と、遠心力に耐えきる腕力。魔術云々の前に、生物としての強度が違う。
「よく腕が千切れなかったな……」
「んー? 全然大丈夫だよ?レン君の魔術、すっごい便利だね!」
無邪気に笑う彼女を見て、俺は改めて認識を改める。こいつは、関わったら色々と常識を壊されるタイプだ。
「……まあ、怪我がないならいいけど」
俺はため息をつき、学校の方角を指差した。
「じゃあ、せっかくだし一緒に行くか? 方向同じだし」
俺が何気なく提案すると、凛は急に動きを止め、モジモジし始めた。 さっきまでの豪快さが嘘のように、視線を泳がせ、頬を少し朱に染めている。
「え、あー、それは、その……」
「?」
「……ほら、他校の男子と一緒に歩いてるところ見られると、その、恥ずかしいっていうか……」
最後の方は蚊の鳴くような声で、よく聞き取れなかった。俺が首を傾げていると、凛はパッと顔を上げ、決意したように拳を握った。
「と、とにかく! 私、先に行くね!」
「あ、おい」
「会場で会おうね!お互い、絶対に合格しようね、レン君!」
彼女はニカっと笑うと、今度は自分の脚力だけで地面を蹴った。それでも十分すぎる速さで、彼女はビルの彼方へと消えていった。
「……なんなんだ、あいつ」
俺はその場に取り残され、ポリポリと頭をかいた。嵐のような女だった。だが。
「……『頑張ろうね』、か」
去り際に彼女が呼んだ名前と、鈴が鳴るような声のトーンが、耳の奥にへばりついて離れない。心臓が、少しだけ早鐘を打っている気がする。これは、武者震いのようなものか。それとも――。
「面白くなってきた...!」
俺は胸の高鳴りの正体を保留にして、熱くなる頬を風で冷ましながら、再び空へと飛び立った。空はどこまでも青く、俺たちの前途を祝福しているようだった。
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