幽霊になれる場所

アケビ

幽霊になれる場所

夜の河川敷には、風の音しかなかった。


下を流れる川に落ちて死ぬと、幽霊になってこの世に残れる。

そんな噂を、俺はいろいろな人から聞いていた。


もちろん、本気で信じているわけじゃない。

ただ、死んだあともこの世界にとどまれるという話には

どこか夢がある気がしていた。

だから、もし大病を患ったり、死期が近づいたりしたら。

ここから飛び込もう。

そんなことを考えていた。


(最近は日が沈むのが早いな。

少し前まで、この時間はまだ明るかったはずなのに)


街灯の間隔が妙に広く、歩いていると足音が自分のものかどうかわからなくなる。

痺れていた足をゆっくり動かし、立ち上がった。


「こんばんは」


背後から、はっきりした声がした。


振り返ると、女が立っている。

白いワンピース。濡れたように見える髪。

足元だけが、どうにもおかしい。影の位置と噛み合っていなかった。


「……誰ですか」


「帰り道、同じですよね」


「……そうなんですか」


歩き出すと、女も歩き出す。

距離は、なぜか縮まらない。


「さっきから、足が速いですね」


「急いでるんで」


「逃げてます?」


喉が詰まった。


「逃げてません」


「嘘つき」


女は笑った。


声が遠ざかった気がして、振り向いた瞬間、鼻先に女の顔があった。

驚いて、思わず声が漏れる。


「ねえ。ここ、よく人が落ちるんです」


女は川を指さした。

水面は暗く、流れは見えない。


「なぜだと思います?」


「……なんなんですか。これ以上付きまとうなら、通報しますよ」


「できないですよ」


女は立ち止まらない。

俺が一歩下がるたびに、距離を詰めてくる。

さっきまで遠かった声が、今は耳元で聞こえていた。


街灯の下。

俺の影の横に、女の影がある。


この位置関係なら、女の影は俺の影に隠れるはずだった。


「……何が目的なんです」


「目的?」


女は不思議そうに、わざとらしく首を傾げる。


「話し相手を探してるんですよ。ずっと……」


走った。


靴が地面を蹴る音に、別の足音が重なる。


「速いですね!」


楽しげな声が、夜の街に異様なほど大きく響いた。


橋が見える。

人通りのある道まで、あと少し。


「ねえ、約束しません?」


女の声が低くなる。


「今夜だけは帰すから、また会おうって」


「断ります」


「冷たいですね」


突然、足首を掴まれた。


体勢を崩し、必死に手すりに掴まる。

金属は冷たく、なぜかぬるりとしていた。


「離せ!」


「無理です」


女の顔が、下から覗き込んでくる。

その目には、黒目しか見えなかった。


俺は鞄からカッターナイフを取り出し、女の手首に突き立てた。

刃は音を立ててへし折れる。


女が悲鳴を上げた。

それは今朝、文房具屋で買ったばかりの新品だったが、

そんなことを気にしている余裕はない。


掴む力が緩んだ。


その隙に、橋を越えて走る。

背後から、悔しそうな声が聞こえた。


「また会いましょうね」


翌日から、俺はその河川敷に近づいていない。

近いうちに、この街を離れるつもりだ。


あの夜は逃げ切れた。

だが、いつかまた、あの女は現れるかもしれない。


死後もこの世界に残るという夢は、どうやら諦めるしかなさそうだ。

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