五節
「ねぇ、あそこ!」
彼女は衝動に足を加速させた。
「わぁ、綺麗な噴水だね」
周囲には人だらけ。
私はその中に跳ぶ込む勇気なんてさらさら無かったが、彼女はお構いなしだ。
涼し気な水辺は、春先の日差しと相まって清々しい。
一様に噴水を囲っている人々の気持ちも少しは理解できる。
――理解だけは、できる。
思考が停滞しそうになるたび、いつも手先が痺れてしまう。
そのおかげで、私は今、手にカメラを持っていることを思い出した。
そうだ、撮らないと……。
「はぁ、ウルカ。もうここでいいかしら――」
「ねね! あっちにお城みたいなのあるよ」
私の声が彼女によって掻き消されてしまう。
落胆をしている一方、彼女はありありとした輝きを浮かべていた。
「ほら早く~。いこいこ!」
心底、彼女の好奇心には気が滅入る。
少しは大人しくしてくれても構わないのに。
「おっき~! これは初めて見たかも!」
私の承諾なしで早速、そのお城とやらに向かったらしい。
どうしてか小型なカメラが重いと感じつつ、仕方なくついていくことにした。
もう、私のカメラは機能しないのだけれど。
近くに寄ってみると想像以上の迫力だった。
頑強な面持ちでこちらを見下ろすそれは、周囲の建造物とは一線を画している。
もはや壁そのものだ。
赤煉瓦で敷き詰められ、中央にはとびきり大きな時計台が覗いていた。
彼女はすでに建造物の目の前まで来ている。
「えーと、なになに? 〈スフォルツェスコ城〉?」
壁の碑文にはそう記されていたらしい。
――スフォルツェスコ城。
名前だけは聞いたことがあるけれど、確か……城塞跡地、だったかしら。
過去にそう習った気がする。
「入るだけは無料らしいね。行ってみよっか!」
「…………そうね」
ガクリと首を落とすも彼女は気付くことすらしない。
その活気にあてられて、見上げるアーチの門をくぐりながら私たちは中に入っていった。
× × ×
日の光が門で遮られていたので、出たときにはちょっとした眩しさを覚える。
そして、なんだか足裏が痛い。
特に気も留めずに、彼女の背中を追うとやっと全貌が現れたようだった。
とても荘厳な雰囲気を醸し出している。
見ただけで、構造は一目瞭然だった。
「壁に、囲われているのね」
門を抜けた先は開放的なスペースに、石畳が敷き詰められた空間。
全方位をこうして壁が一周しているのは、かつての城塞としての役割だろう。
歴史的な風情を感じる。
けれど……
「かなりと観光客がいるのね。何かの嫌がらせかしら」
「いいじゃんいいじゃん! 賑やかで楽しそうだし」
「あのねぇ……」
相変わらず嘆息が出てやまない。
私の思考の拠り所をどこに置いておけばいいのだか……。
「もうここでいいんじゃないかしら。さっさと撮るわよ」
「ちょっとちょっと、ここでするって決断早くない⁉」
そうと決まればシカトをしながら、
「あなたのカメラ、貸しなさい」
「う、うん」
互いのカメラを交換して。
「こう、するのかしら」
カチャカチャと機械仕掛けのフィルムカメラを操作する。
指先に伝わるのは硬質さ、眼に映るのは繊細さ。
どうも、扱いなれなかった。
「こうするんだよ」
私からそっとカメラを剥がす。細い指で撮影の準備を整えていた。
「はいっ。ここのシャッターボタンを押すだけで撮れるようにしたから」
「あ、ありがとう」
カメラ上部に羽ペンの持ち手部分くらい小さな穴がある。
私の片方のレンズを介し、風景の構図を探す。
観光客が邪魔……もっと人が写らないような場所はあるかしら。
私は暫らく逡巡する。
結局、後ろにある高々とした時計台を撮影することに決めた。
人差し指は素直に。カシャっと。
「本当にこれ、撮れているの?」
確かにシャッター音は耳にしたものの、正確に撮れているかは不明だ。
「フィルムカメラは現像するまでどんな写真が撮れたか解らないんだよ。だから現像するまでお楽しみってこと」
「その場では解らないのね」
人生で初めて撮影側に回った。
カメラを向けられたことは何度かあるけれど。
「ピンボケ? をしていない限り、及第点の写真は撮れたとは思うわ」
大きく私は髪を振った。
仕事はあくまで仕事なのだ。
完遂さえすればもう終わりにしていいだろう。
「ウルカ、元居た場所に帰るわよ」
「早いよ! もう少し街を散策しようよ!」
「それは無理な相談ね。第一、それ相応の写真が――」
「ここはモフィリアの思う、『最高の景色』なの?」
「――ぅ」
ガラスが割れたように目が揺らいだ。
「そ、それは……」
口が上手く回ってくれない。
どうしてか私は身体を固まらせていた。
「どうなの?」
いつも以上にその言葉には鋭利さが隠されている。
自身の喉を今か今かと刺してきそうな、そんなもの。
唾を呑みこむ。
ようやく萎れた一声が喉を通った。
「――少し、だけよ。少しだけなら。つっ、付き合ってあげてもいいわ。仕方なくね」
「さっすがモフィリア~。そうでなくっちゃ!」
途端に全身の力が抜けるような気がした。
――なんなの、これ。
理解できなかったものに包まれたあとは、なんとも言えずにただ俯く。
だから、彼女の奇行にも反応できなかった。
「――っと、その前に。カメラ貸してみ貸してみ~」
両手で抱えていたはずのカメラが……。
いつのまにか彼女の手に移されている。
「私が『記念撮影』してあげるよ! なんだか良さげな場所っぽいし~」
「えっ」
心臓を撃ち抜かれたんじゃないか。
そう、錯覚するほどに。
――同じ響き。
複雑な機械音を立てて調整している彼女。
それが終わったのか、すぐ撮影を始めるようにレンズを向ける。
「…………あっ、なにして」
「絶対ここ記念撮影スポットだと私は思うんだよね!」
「それはどういう――」
「うんうん! モフィリアもきっと撮ってほしいよね。私に任せて!」
私の声はまるで聞こえていない。
狭い覗き穴から私を見つめる眼が、離してくれなかった。
『はい笑って笑って~。3、2、1――――』
「やめっ――」
咄嗟に手で顔を覆い隠した。
カシャっと空振りした声だけが貫く。
「も、もしかして撮ってほしくなかった……? それならごめんね」
「い、いえ。その…………髪をといていない、し。なんのおめかしも、していないから」
踵を返し、ボサボサな髪の毛を思い切り振った。
「あはは。ごめんごめん、また今度撮ろうね」
「…………ええ」
けれど、私は未だ頭で残響が鳴り止まない。
あの時の、柔らかな光を思い出すように……。
あの場所は。
そう、色んなものに囲われていて。
――まるで、故郷のような。
「これからどうしよっか~」
軽い彼女の声音。
それを阻むように耳鳴りが襲う。
世界が溶けたんじゃないか。
そういう感覚に陥って、すぐに私は身体を動かした。
周囲の壁をグルっと回転して目に留める。
私の大切な場所、あの人と過ごした大切な場所。
うそ、まるであそこに居るみたいじゃない。
いやだ、怖い。
「どうしたのモフィリア」
いつしか私は、両腕を強く掴んでいた。
震えをなんとか止めようと思って。
「早く……早く、ここから出ないかしら。もう用はないから」
「わかった。じゃあ行こう~!」
どうしてなんだろうか。
私はあの人の過去に手をつけられた気がした。
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