企画の弊害……?


 創作村では、定期的にお題をモチーフにした即興のコンペのようなものが開かれていたと書いたことを覚えているだろうか。

 一時間以内にそのお題に沿った小説を書き上げ、後から皆で投票し、講評し合う。村の中では、それが当たり前の営みだった。


 そこでは日夜、闘いが繰り広げられていた。ただただ作品を良くしたいがために――と言えば聞こえはいいが、実態は、いかに自分の作品が優れているかを示すためのアピール合戦でもあった。

 それが成立していたのは、投稿時点では自分の作品がどれなのか分からない、という不透明さがあったからだ。もっとも、最終的には各自が自作を名乗るのだから、どこか滑稽な前提でもあったのだが。


 さて、我々の創作村には、モノ書きだけでなく絵師もいた。絵師たちにも、同じルールに基づいたコンペのような催しがあったのだが、その光景は、我々が知るそれとは、どこか趣を異にしていた。


 絵とは、視覚的イメージに依拠した表現だ。小説のように読んで理解するのではなく、見て判断される。

 かつて誰かが「絵は究極の理屈だ」と、滔々と語っていた。その言葉だけが、妙に脳裏に残っている。理屈の上で描かれた絵、というものも、なるほど存在するのだろう。言われてみれば、色の塗り方や線のタッチには、確かに一定の法則性が見て取れる。


 だが、結局のところ、本物は理屈を超えた先にある。有体に言えば、絵とは、自分の欲望を直截に曝け出し、その場で理解を得られる表現だ。

 絵師界隈には叱られそうだが、少なくとも言葉を弄する必要がない。極めて記号的で、実にわかりやすい。


 なので、絵師コンペとは即ち――自分の性癖暴露大会だった……!


 当然、自分の描いた子が一番である。彼ら彼女らは、自分のフェチや理想をそのまま形にした存在で、他人の言葉で順位が入れ替わるような代物ではない。

 そこにあるのは、自分の理想を投影した究極の作品だ。押し付け合いというより、最早、殴り合いへと発展していったのである。


 当然の帰結として、世の中には、なかなか理解されない表現も生まれる。ギリギリの線を踏み越え、ドン引きされることもあるだろう。それでも彼ら彼女らは描き続ける。己の欲望を満たすために……。


 だが、これは創作全般に言えることではないだろうか。

 媒介は何であれ、好きなものを描く。これこそが、創作の醍醐味でもあるのではないだろうか。


 どっかの輸入商のおっさんも言っていたではないか。


「モノを食べる時はね、誰にも邪魔されず、自由で、なんというか、救われてなきゃあダメなんだ。独りで、静かで、豊かで」と。


 故に、迷わずに進め。

 ルールの上でならば、それは許される。

 大いに性癖を投影し、暴露してもいい。そして、愛していい。



 余談ではあるが、絵師コンペの殴り合いの場で、「で、お前はどっちがエロいと思う!?」と問いかけられ、その場に立ち会わされた私は、実に複雑な心境だった。

 大小がすべてではない。小さくとも大きくとも、そこには夢が詰まっている。

 そのことだけは、ここに暴露しておきたい。



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