第6話 畏れよ、塔を

早朝――


宿舎町の通りの先、谷に挟まれた細道の門を潜ると、志願者たちを塔へ運ぶアグリ車が停まっていた。


フレアが乗り込むと、車内は思ったよりも狭い。

向かい合うように設えられた木の長椅子には、すでに三人の男が座っていた。


つり目の男が、最初にフレアたちに気づいた。一瞬だけ視線を上げ、それから、わざとらしく興味を失ったように窓の外へと顔を向けた。


「……こいつらと一緒かよ」


空気が、わずかに張りつめた。


フレアは気にした様子もなく、フィオナの背を軽く押した。


「ほら、詰めて」


「は、はい……」


フィオナは小さく頷き、空いた端の席に腰を下ろす。

フレアはその隣に座る。


結果として、三人組と二人は、向かい合う形になる。

距離は、膝がぶつかりそうなほど近い。


フレアはすぐに口を開く。


「私はフレア。こっちはフィオナ。あんたたち、名前は?」


つり目の男が一瞬だけこちらを見る。


「……いなくなる連中に、名乗る名前なんてねぇよ」


一拍。


「は?」


フレアが、素で聞き返す。


男は、肩をすくめた。


「……冗談だって」


それから、ぶっきらぼうに言う。


「俺はフォルド。こっちのデブはミックで、細長いのがネレクだ」


小太りの男――ミックが、くすっと笑う。

細長い男――ネレクは、無言のままだ。


言い終わると、フォルドは鼻で笑った。


「何よ?」


フレアは首を傾げる。


フォルドの視線が戻る。


「……いや。試験、楽そうだなって思ってさ」


フレアは一拍考えてから、


「あー……どうだろ。私、筆記はたぶん最悪だよ」


と、あっさり言った。


フォルドは一瞬、言葉に詰まる。


「……そういう意味じゃなくてだな」


「?」


フレアは本気で分かっていない顔をする。


フィオナは、二人の会話のあいだ、ずっと膝の上で指を絡めていた。


フォルドの視線が、そちらに向く。


「そっちの紫の君は?」


フィオナはびくっと肩を跳ねさせる。


「え……あ……」


「筆記、できるの?」


「……す、すこし……です……」


声は、ほとんど消え入りそう。


フォルドは鼻で息を吐く。


「ふうん。まあ……記録官は勉強が仕事だからな」


含みのある言い方。


フレアが横から口を挟む。


「じゃあ、戦う仕事は誰がやるの?」


フォルドは睨む。


「……は?」


「私はまだ見たことないけど……記録官って、灯喰いとも戦うんでしょ?」


「……それは、まあ」


「じゃあ、両方できないとダメじゃない?」


フォルドは、返す言葉を一瞬探す。


小太りのミックが助け舟を出す。


「いや、役割ってものがあってだな……」


フレアは素直に頷く。


「なるほど。じゃああなたは、どの役割?」


「……俺は、戦闘」


「へえ」


フレアは、フォルドの腰の剣を見る。


「その剣、あんまり使い込まれてないね」


空気が、ぴしりと張る。


フォルドの目が細くなる。


「……何が言いたい」


フレアは首を傾げる。


「なんでもないけど。きれいだなって思っただけ」

細長い男が初めて口を開く


「……お前、喧嘩売ってるのか」


低い声。


初めて、細長のネレクが感情を見せる。


フレアは即答する。


「売ってないよ。買ってもいないし」


一瞬、沈黙。


小太りのミックが吹き出しそうになり、慌てて口を押さえる。


フィオナは、フレアの袖をそっと引く。


「……フ、フレアちゃん……」


フレアは小さく「ん?」と返す。


フォルドは、視線を逸らし、吐き捨てるように言う。


「……試験で分かるさ」


フレアはにっと笑う。


「うん。分かるね」


その言葉は、挑発でも決意でもなく、

ただの事実を言っているだけだった。


アグリ車は、軋む音を立てながら走り続ける。

五人の間に、もう言葉はない。

だが沈黙は静かではなかった。


――


アグリ車は、最後に大きく揺れ、ぎし、と軋む音を立てて止まった。


「……降りろ」


御者の低い声。


扉が開くと、冷たい空気が一気に流れ込んできた。


フレアは、まずその空気の冷たさに一瞬だけ目を瞬かせ、

それから――視界いっぱいに広がったものを見て、言葉を失った。


塔だった。


いつも遠くの空に見えていたそれは、

近くで見るとただ高い、というだけではなかった。


谷を隔てた広大な盆地に突き立つようにそびえ立つそれは、

石の塊というより、地面から生えていた山そのもののようだった。


何層にも重なる灰白色の石壁には、

ところどころ黒い筋が走り、

それはまるで、長い年月のあいだに刻まれた傷跡のように見えた。

風に削られ、雨に打たれ、それでもなお崩れず、黙して立ち続ける――

そんな時間の重さが、ただそこにあるだけで伝わってくる。


「……でっか……」


フレアは思わず漏らす。

上を見上げてもその頂は黒い雲に隠れて見えない。


「……こ、こんなに大きいんですね……」


隣のフィオナの声は、ほとんど吐息だった。


だが、驚いたのはそれだけではない。

門の前には、すでに百人ほどの志願者たちが集まっていた。

東から、西から、南から、北から――


服装も、年齢も、身なりもばらばら。


革鎧を着た者。

学者風の外套を羽織った者。

粗末な布一枚の者。


「……人がこんなに……」


フィオナが、呆然と呟く。


「あちこちから集まってきたんだろうね」


フレアは、目を細めて人の流れを見る。


ざわめき。

足音。

笑い声。

緊張した沈黙。


期待と、不安と、野心と、諦めと。


それらがごちゃ混ぜになって、塔の前に溜まっていく。


三人組も、いつの間にかアグリ車を降りていた。


フォルドは腕を組み、塔を睨むように見上げている。

ネレクは無言のまま、人の数を数えるように視線を動かし、

ミックは、ひどく居心地悪そうに周囲をきょろきょろ見回していた。


「僕、心配になってきちゃったよ……」


ミックが呟く。


「……心配ないって……適当にやれば受かる。

ここだけの話、俺たちは記録官の息子だからな。優遇されてるのさ」


フォルドは一瞬だけ視線を逸らして言った。


ネレクは、その言葉のあと、ほんの一瞬だけフォルドを見た。

そして、すぐにまた何事もなかったように視線を人の波へ戻す。


そのときだった。


人の流れの向こうから、乾いた蹄音が近づいてきた。

荷車の軋みとは違う。重く、はっきりした足音だ。


ざわめきの隙間を割るようにして、一頭のアグリが現れる。

灰褐色の体躯。肩の筋が波打ち、鼻息が白く立った。


その背に、ひときわ背の高い金髪の少年がいた。


姿勢がいい。

手綱の捌きに無駄がない。

外套も髪も、整っている。


少年は群衆の手前で、わざとらしいほど大きくアグリを止めた。

蹄が地を打ち、土が跳ねる。


「――道を開けたまえ!」


よく通る声。

数人が思わず身を退き、視線が一斉に集まった。


少年はアグリの背のまま、胸を張る。


「金色の上級記録官ユリウス・バルナークの息子、

ガイウス・バルナーク見参!」


小さなどよめきが走る。

誰かが、名門の名だと囁いた。


――ガイウス。


フレアは一瞬だけ彼を見て、

それからすぐ興味を失ったように視線を外した。


「何あれ……うるさい」


「……はは……」


フィオナは困ったように口元をゆるめ、

小さく息を漏らすように笑った。


そのさらに向こう。


人の輪から、微妙に外れた場所。


ひとり、立っている少年がいた。


黒髪。

粗末な衣。

だが、視線だけが、異様に鋭い。


まるで、塔そのものを睨みつけているようだった。


フレアは、思わずそちらを見る。


「……あいつ」


フィオナが、つられるように視線を向ける。


「え……?」


「あいつ、塔に喧嘩売ってるみたいな顔してる」


フィオナは、少し困ったように首を傾げる。


「……そう……ですか……?」


フレアは、なぜか目を離せずにいた。


怒っているようにも見える。

怖がっているようにも見える。

でもそれより――


拒絶している。


この場所を。

この塔を。

この仕組みを。


少年は、誰とも話さず、

ただひとりで立ち尽くしていた。


フレアは、少年の横顔を一度見て、

すぐに視線を逸らそうとした。


なのに、またそちらを見てしまう。


自分でも理由が分からず、眉をひそめる。


フレアは一度だけ息を整えてから、視線を切った。


「……フィオナ」


「は、はい」


「離れないでね」


「……え?」


「人、多いし」


「……は、はい……」


フレアは、フィオナの手首を軽く掴んで引き寄せる。


フィオナは少し驚いたが、抵抗せず、そのまま頷いた。


そのとき、塔の正門の前に、数人の上級記録官が姿を現した。


ひとりは、背の高い白髪の男だった。

黒いマントをまとい、長い髪を風に揺らし、片手には杖を携えている。


ひとりは、角刈りに整えられた顎髭の男。

蒼いマントと戦斧を背負った屈強な体格が、いやでも目を引く。


そして最後に、金色の鎧を身に纏った紳士風の男がいた。

整った金髪に口髭。

あまりにも整いすぎて、かえって人の目を引く。


「……あれ、誰だろ」


フィオナが小さく呟く。


フレアは答えない。


誰かが、後ろで囁いた。


「黒いマントが……ヴァルター・ウォールデンで……」


別の声が続く。


「蒼いのが……グレイブ・ハルトフェルド」


最後に、少しだけ声が落ちる。


「……金色は、ユリウス・バルナークだ」


ざわめきが、波のように静まっていく。


そしてその前に、ひとりの初老の男が進み出た。


豪奢な外套。

深い赤の色合いに、控えめな金の刺繍が走っている。

背筋は伸び、歩みには一切の迷いがなかった。


白髪混じりの短い髪に、深く刻まれた皺。

鋭いというより、重たい目をしている。


男は一度だけ、塔を振り仰いだ。


――ほんの、わずかに。


それから志願者たちの方を向き、静かに名乗る。


「えー……私は記録官長……ダルグレン・フォークナーである」


ざわめきが、完全に消えた。


男は低く、しかし粘るようによく通る声で続けた。


「諸君……。ここに立つということが、何を意味するか……

それを、理解している者は……そう、多くはない」


一拍。


「この塔は……ただの建物ではない。

人の歴史を記し……命の重さを量り……

そして……世界の均衡を、保つために在る」


視線が、ゆっくりと、志願者たちの顔を撫で回していく。


「記録官とは……この塔の“目”であり……“耳”であり……

時に……その“手”であり……“刃”となる者たちだ」


言葉は淡々としている。

だが、その一つひとつが、逃げ場を削っていく。


「……ゆえに、問う」


わずかに、声を落とす。


「諸君は……この塔を、畏れよ。

敬え……逆らうな……利用しようとするな」


「ここは……願いを叶える場所ではない。

覚悟を……試す場所だ」


男は、再び塔を見上げた。


今度は、ほんの少しだけ、長く。


「それでもなお……進むという者だけが……

記録官となる資格を持つ」


ゆっくりと、視線が戻る。


「――以上だ。名を呼ばれた者から……前へ」


だが、誰も動かない。

誰も声を発しない。


名は、すぐには呼ばれなかった。


上級記録官たちが、互いに一瞬だけ視線を交わす。


ダルグレンが、わずかに眉を寄せる。


「あー……名簿は……?」


その声は低く、しかし曖昧だった。


若い記録官が、はっとしたように顔を上げる。


「あ……は、はい……!」


慌てて踵を返し、脇の机へ駆け寄る。

紙束を抱え上げ、胸に押し当てるようにして戻ってくる。


「……あ、あの……名簿は……こちらに……」


差し出しかけて、止まる。


声が小さく、場に届かない。


ダルグレンは、わずかに顎を引いた。


「……準備は……済んでいる、はずだが……?」


言い切らない。


若い記録官は青くなって頷く。


「……えっと……その……」


空気が、わずかに弛んだ。


ダルグレンは咳払いをひとつする。


「……よい。では……門を開けよ」


合図を受けて、門番たちが動く。


巨大な門の前に、二人の男が取りついた。

滑車が軋み、鎖が鳴る。


……ぎぎ……ぎい……


重たい音を立てながら、門がわずかに開く。


だが――途中で、止まった。


門番のひとりが、顔をしかめる。


「……噛んでます」


もうひとりが肩を入れる。


……ぎ、ぎぎ……


ようやく、門が人ひとり通れるほどに開いた。


その間、誰も何も言わなかった。


「……では……名を呼ばれた者から前へ」


今度は、誰もが聞き取れる声だった。


列の先頭にいた志願者が、戸惑いながら一歩踏み出す。

次いで、もうひとり。


ゆっくりと、人の流れが動き始めた。


人々は前へ。

前へ。


塔の影の中へ。


フレアは一度だけ、振り返った。


あの少年は、まだそこにいた。


人の流れに逆らうように、動かず、塔を睨んでいる。

その視線が、一瞬だけこちらを掠めた。


ほんの一瞬。


だが、確かに目が合った。


――ぎくり、と胸の奥が鳴った。


理由は分からない。

でも、フレアはその瞬間、確信した。


「……あいつ、ただの志願者じゃない」


「えっ?」


何かが、始まる。

そんな気がした。


「……行こ」


フレアはそう言って、戸惑うフィオナの手を引いた。

二人は、人の流れの中へと踏み出していく。


巨大な塔が、そのすべてを飲み込もうとしていた。


静かに。

確実に。

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灯の断章 〜赤い髪のフレア〜 ショパン @chopin_hinodan

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