第5話 秘密の書架
ユリウスは、布に包まれた卵を両腕に抱えたまま、宿舎町の石畳を歩いていた。
淡い光を透かす布の端が、歩みに合わせてわずかに揺れている。
その背に、落ち着いた声がかかった。
「おや、ユリウス様。ご苦労さまでございます」
ユリウスは足を止め、声の主へと振り向く。
そこに立っていたのは、坊主頭の中年の男だった。
日焼けした額に、柔らかく垂れた目元。
いつからそこにいたのか分からないような、控えめで穏やかな佇まい。
「……君は、ガイウスの世話役の……たしか、ヘルモーズ君でしたね」
「はい。お見知りおきいただき光栄です」
ヘルモーズは軽く頭を下げ、にこやかに続けた。
「此度の記録官試験、ガイウス様もいよいよご参加とのこと。
あのお方であれば、主席合格も至極当然でありましょうな」
ユリウスは返事をする前に、腕の中の卵へと一度だけ視線を落とした。
布の端を、指先でわずかに整える。
それからヘルモーズに向き直り、穏やかに答えた。
「ありがとうございます……バカ息子は、槍の才だけはありますから」
小さく息を吐く。
「ですが、それで主席かどうかは――まだ、わかりません」
言い終えると、ユリウスはそれ以上何も付け足さず、前を向いて歩き出した。
ヘルモーズは一瞬、言葉に詰まったように口を開き、すぐに苦笑して頭を掻く。
「はは……さすがでございます」
そしてその背に、深く一礼した。
――
整然とした宿舎町の一角に、ひときわ大きな屋敷があった。
石造りの壁は他の家屋よりも厚く、窓は高く、扉は重い。
ユリウスがその扉を押し開け、中へ入る。
「父上。お務め、ご苦労さまです!」
階段の上から、張りのある声が響いた。
金髪を逆立てた、背の高い少年が駆け下りてくる。
仕立てのよい衣服に身を包み、姿勢はよく、動きには無駄がない。
ガイウス・バルナーク。
ユリウスの一人息子である。
彼もまた、十六歳となった今年、記録官に志願した者のひとりだった。
ガイウスは父の前で足を止めると、背筋を伸ばし、胸に手を当てる。
呼吸をひとつ整えてから、声を張り上げた。
「父上。明日、俺も他の志願者と共に、塔へ向かいます。
ついに、父上と同じ、誇りある記録官になれる日が来ました。
精進して参ります!」
言い終えたあと、彼はわずかに唇を引き結び、父の反応を待った。
ユリウスは、すぐには答えなかった。
ほんの一拍。
視線をわずかに下げ、何かを考えるように間を置いてから、静かに告げる。
「……そうですか。頑張りなさい」
「はいっ!」
ガイウスは即座に、力強く応えた。
だが、その声が響いたあと、空気はそれ以上動かなかった。
言葉は続かず、沈黙だけがその場に残る。
ユリウスはもう振り返らず、そのまま書斎の方へ歩いていく。
長い外套の裾が、石の床を静かに擦る。
ガイウスは、その背中を見送った。
呼び止めるべきだったのかもしれない。
何か言うべきだったのかもしれない。
だが、言葉は喉の奥に留まり、形にならない。
空気がわずかに張りつめ、ぱちり、と。乾いた、
糸の切れるような音がした。
ガチャリ――
鍵が外され、ドアノブが回る。
書斎の扉が、静かに開いた。
……やがて、扉は閉じられる。
ガチャ。
鍵のかかる音が、屋敷の中に小さく響いた。
ユリウスの書斎は、外の喧騒とは切り離されたように静かだった。
高い天井まで届く本棚が三方の壁を覆い、背表紙は色味ごと、分野ごとに几帳面に揃えられている。
『記録官法大全』
『塔管理規範 第三改訂版』
『灯配給制度史』
『灯喰い発生年表』
『歴代上級記録官列伝』
『辺境村落調査報告書集』
『記録官の倫理綱領 注解』
『公共善としての灯』
『配分と統治』
『灯の計量と保存に関する技術白書』
どれもがこの世界の秩序を記すための書だった。
この書斎は、まさに記録官という役職そのもののように、整い、無駄がなく、静かだった。
ユリウスは無言で机に積まれた冊子の上に、布に包んだままの卵を、立てかけるようにそっと置く。
それから奥の本棚の端に手を伸ばした。
指先が、背表紙のわずかな段差を探る。
一冊、二冊――
三冊目の奥。
ユリウスが力を込めると、本棚がわずかに軋み、壁からずれる。
その裏に、隠された小さな扉が現れた。
ユリウスは扉を開け、机に置いた卵を取り上げると、そのまま中へ入る。
扉が閉まる音が、外の世界を切り離す。
中は、書斎よりもずっと狭く、天井も低い。
窓はなく、壁も床も石造りで、外界の音はほとんど届かない。
それは彼だけが知る、『秘密の部屋』だった。
壁際に小さな机があり、その上に卵を置く。
腰に下げていた灯のランタンを外し、机の上に置くと光が広がり、闇の輪郭がゆっくりと浮かび上がる。
本棚。
石壁。
紙と埃の匂い。
だがユリウスの意識は、すでにそのすべてを通り越し、視線は机の上の卵から離れない。
本棚に並ぶ書物は、背表紙の色も、紙の質も、文字の形も――さきほどの書斎とは、明らかに違っていた。
『塔は誰のものか』
『灯による支配』
『配分が生む階級』
『記録は真実か』
『秩序は暴力である』
『灯の王外典』
『記録官以前の世界』
『灯喰いは敵か、調停者か』
『祝福と犠牲の等価性』
『灯を消す方法』
『灯なき文明論』
『柔らかな夜』
『焼かれた書物たち』
『官能と悪徳の論理』
『禁忌の年代記』
ユリウスはそれらに目をくれず、卵を包んでいた布をそっと取り外し、ランタンを近づける。
息が、わずかに浅くなった。
淡い灯が卵に触れた瞬間――
卵は、応えるように、ふわりと輝きを強めた。
淡く。
確かに。
鼓動のように。
ユリウスの瞳孔が、わずかに開く。
「……生きている」
声は低く、しかしいつもよりわずかに息を含んでいた。
指先を近づける。
温かい。
「……温かみは、少しありましたが……やはり、このカムナ=トゥチカの卵。初めて見ましたが、状態はかなりいい」
ユリウスは、ふと思いついたように立ち上がり、視線を本棚へと移した。
そして、躊躇なくそこへ歩み寄る。
指先で背表紙をなぞり、幾冊かを引き抜いては戻し――
やがて、一冊の古い書に指が止まった。
「……これだ」
その声は、確信に近かった。
ユリウスはそれを抜き取り、机の上に置く。
表紙は色褪せ、角は擦り切れている。
何度も読まれ、何度も閉じられてきた本だった。
ページをめくる音が、静かな部屋に乾いて響く。
ぱら、ぱら、ぱら――
その音だけが、静かな部屋に響く。
「……ウォールデン。ハルトフェルド。バルナーク……」
名前をなぞるたびに、胸の奥が、微かに熱を持つ。
「残存する十二使徒の家系は、いまやこの三家のみ……」
指が止まる。
「……あった」
声が、低くなる。
「ティノ村の村名は、消えた旧家の名に由来する――」
視線が、食い入るように走る。
「レヴァティーネ家……」
息を吸う。
「かつて灯の国の一翼を担った家系。
霊鳥カムナ=トゥチカを使役し、国中に灯を配った……」
さらに、下。
「……頭目は、赤い髪の女性……」
言葉を追う指が、わずかに震える。
「アウレリア・レヴァティーネ……
剣と弓を操り戦う女戦士……」
ユリウスは、ゆっくりと息を吐く。
だがそれは、落ち着くための息ではなかった。
「……やはり」
視線が、机の上の卵へと移る。
「この卵を持ち帰った志願者……レヴァティーネ家の再来かもしれない」
胸の奥で、鼓動が一段、速くなる。
それを押し殺すように、ユリウスは本を閉じた。
――そのとき、口元がわずかに歪む。
ユリウスはその感触を記憶するように、指先でなぞった。
「……実に面白い」
その笑みは、喜びとも、期待とも、あるいは――
危険な予感ともつかぬ、不敵な色を帯びていた。
――
「はっくしょんッッ!!」
詰所の奥、志願者用の簡易宿泊室に、間の抜けた音が響いた。
薄暗い室内。
石壁に囲まれた簡素な寝室には、ベッドが二つ、木の机がひとつ。
小さな蝋燭の橙色の光が、壁に柔らかな影を作っている。
「……さ、寒っ……」
フレアは毛布にくるまりながら鼻をすすった。
詰所の夜の空気は昼間とは打って変わり、ひどく静かだった。
外では風が吹いているらしく、どこかで木が軋む音がしている。
「大丈夫……ですか?」
向かいのベッドから、小さな声がした。
フィオナだった。
毛布から半分だけ顔を出し、心配そうにフレアを見ている。
「うん……ちょっと冷えただけ」
フレアは鼻をこすって笑う。
「この町、石ばっかで冷たいんだよ。床も壁も」
「……たしかに」
フィオナは毛布を胸元まで引き上げ、小さく頷いた。
少し間が空く。
蝋燭の火が、静かに揺れた。
「あの……」
フィオナは指先を組み合わせ、そっと声をかける。
「フレア……ちゃん……。
その……怖くないんですか」
「何が?」
「……明日からの試験」
フレアは仰向けのまま、天井の染みをぼんやり眺める。
「怖くないって言ったら嘘かな。でも……」
一拍。
「ここまで来ちゃったし」
フィオナは小さく息を吐き、唇を結ぶ。
それから、ほんの少しだけ口角を上げた。
「……わたし、ずっと……見てるだけで、何もできなかったんです。夜になると……今夜みたいに暗くて……寒くて……」
フレアは身体を横に向け、フィオナのほうを見る。
「村の孤児たちが泣いていて……」
フィオナの指が、毛布の端をきつく掴む。
「小さい子ほど、泣き方も小さくなっていって……」
言葉を探すように、視線が揺れ、唇を一度噛む。
「……大人たちは、みんな必死で。
灯が足りなくて……自分の家族を守るだけで精一杯で……誰も悪くないんです。
でも……だからって、あの子たちがいなくなっていい理由にはならない」
フレアは何も言わず、ただ見つめている。
「それで……記録官の人が来たとき、思ったんです。
ああ、この人たちは……“動かせる人たち”なんだって」
フィオナはゆっくりと顔を上げる。
「村に灯を運べる。
決められた量を、決められた場所に、ちゃんと届けられる。
……それって、すごいことだって」
一拍。
「だから……わたし、記録官になろうって決めました。
強くなりたいとか、偉くなりたいとかじゃなくて……」
「ちゃんと話せるじゃん」
フレアはそう言って、肩をすくめた。
フィオナは一瞬きょとんとし、それから一気に頬が赤くなる。
「……っ」
慌てて毛布を引き上げ、顔の半分を埋めた。
フレアはその様子を見て、困ったように小さく笑い、視線を逸らしながら言った。
「……見てるだけじゃないじゃん。
ここまで来てるんだから」
息を一つ吐く。
「逃げてもいい。隠れてもいい。迷って悩んでしがみついて、それでも前に進んでる。だったら十分じゃん」
フィオナはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷き、顔を覗かせた。
「……フレアちゃん、強いですね」
「強くないよ」
フレアはあっさり言う。
「たぶん、私、鈍いだけ」
「……鈍い?」
「うん。考えるより先に体が動くから」
それから、にっと笑った。
「でも、鈍いほうが、生き残ることもあるよ」
フィオナはそれを聞いて、くすっと小さく笑った。
「……そうかもしれません」
しばらく、二人とも何も言わずに天井を見ていた。
風の音。
木の軋む音。
遠くで誰かの足音。
世界は、明日の試験など知らないふうに、淡々と夜を進めていく。
「……フレアちゃん」
「ん?」
「明日……一緒に、頑張りましょう」
フレアは一瞬だけ目を閉じて、それから笑った。
「うん。一緒に」
蝋燭の火がゆっくりと揺れ、影が壁をなぞる。
二人はそのまま、静かな夜に身を沈めていった。
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