第4話 志願者達の灯

でこの広い記録官がアグリを御し、

荷車はゆっくりと坂を下っていく。

フレアは荷台の縁に腰を掛け、村が灯の代わりに納めた品々を見つめていた。


塩袋。干し肉。乾燥させた根菜。

骨材。毛皮の外套。


それと、卵。


車輪が、きし、と小さく鳴り、

ふと、鉄製のフライパンに目が留まる。

フレアはそれを持ち上げる。


縁は少し歪み、底には何度も火にかけられた跡が黒く残っている。


「……何これ?

おじさん、なんでこんなもん乗ってんの?」


手綱を引いていた、でこの広い記録官は、前を向いたまま答えた。


「それか? 仕事道具だ」


「……?」


フレアはフライパンを持ったまま、首を傾げた。


記録官は、少し間を置いてから言った。


「あんたは、なんで記録官に志願したんだ?」


「私?」


フレアは少し考え、それから素直に答えた。


「記録官になってさ、

お父さんとお母さんや、村の人たちを楽にしてあげたいんだ。

ティノ村の冬は大変なのよ。雪、積もるし……」


記録官は顔色ひとつ変えず、淡々と告げた。


「そうか」


それから続ける。


「俺はな、近々、記録官を辞める。

長年務めたのが功を得て、酒を扱う許可が下りた」


フレアは目を瞬かせる。


「へぇ……」


「地元で酒場をやる。

働いた分だけ飲ませて、食わせる。そいつを使ってな」


「すごいね」


フレアがそう言うと、記録官は小さく息を吐いた。


「今じゃ、記録官なんて、陰では煙たがられるだけさ」


手綱を軽く引きながら、付け足す。


「……まぁ、頑張りすぎるな」


フレアは、しばらく何も言えなかった。


言葉の意味が、うまく噛み合わない。

胸の奥に、何かが引っかかったまま、形にならない。


フライパンを荷台に戻し、フレアはただ意味が分からず、ただきょとんとしていた。


――


「着いたぞ」


フレアは荷台から振り向いた。

そこには、石造りの家屋が整然と並ぶ北の宿舎町が広がっている。

記録官と、その家族たちが暮らすために設えられた町だ。


荷台から降りた瞬間、

どこからか、香ばしく肉を焼く匂いが漂ってきた。

村では嗅ぎ慣れない、温かく重たい匂いだった。


でこの広い記録官は、近くにいた別の記録官に声をかけ、

話の途中で一度だけフレアを指差す。

指された男はちらりと彼女を見やり、

無言のまま手帳を開いて、何かを書き込んだ。


「話は通しておいた。俺は荷物を運ぶ。

 お前は、この先の詰所で一晩休め」


「ありがと。卵の件、頼んだよ」


「わかってる。金色の上級記録官様に、通しておく」


フレアはにっと口元を緩めると弓を背に担ぎ直し、

何も言わず詰所のほうへと歩き出した。


石畳は乾いており、靴底が軽く音を立てる。

同じ造りの家屋。壁際には薪や木箱が、決まった位置に積まれている。


すれ違うのは、ほとんどが記録官だ。

マントの色は異なっていても、

胸元に揃った徽章だけが、この町の住人であることを示している。


歩き始めてすぐ、フレアはいくつもの視線を感じた。


真正面から見る者はいない。

だが、通り過ぎる瞬間、あるいは一歩遅れて、

ちらり、と目だけが向けられる。


――見ない顔だな。

――志願者か。


そんな無言の確認が、空気の中を行き交っている。


誰も足を止めない。

誰も声をかけない。


それでいて、無視されているわけでもない。

足音と衣擦れの音が、規則正しく重なっていく。


道の脇では、記録官の子どもたちがしゃがみ込み、

小さな黒と白の石をいくつも並べて遊んでいる。

別の家の前では、男が何本もの剣を研いでいた。


ここでは、生活が静かに続いている。

村のようなざわめきはない。沈黙でもない。

それでも、家屋のそのどれもから淡い灯の光が漏れていた。


詰所は、町の端にあった。

他の家屋よりも壁が厚く、

人の出入りで磨かれた扉が、静かに佇んでいる。


フレアは一度だけ、背後を振り返った。


宿舎町は変わらない。

彼女を受け入れも拒みもせず、

ただ「志願者」として通過させるだけだ。


フレアは息を整え、

詰所の扉へと手を伸ばした。


軋む音とともに扉が開く。


中は、思ったよりも広かった。

石壁に囲まれた室内には、長机がいくつも並び、

簡素な椅子に腰を下ろした若者たちが、静かに待機している。


志願者だろう。

誰もが口数少なく、視線を落としたまま、

あるいは手元をじっと見つめている。


空気は張り詰めているが、重苦しくはない。


入口に近い机には、三人組の若い男たちが陣取っていた。

そのうちの一人、つり上がった目をした男が、

フレアに気づくと、ちらりと横目を向ける。


そして、唇の端をゆっくりと歪める。


「へっ……また女かよ」


声は低く、ほとんど囁きに近い。

だが、確信に満ちていた。


「女が入試なんて、無理無理」


言葉のあと、

隣に座っていた小太りの男が小さく鼻で笑い、

もう一人の細長い男も、それにつられるように肩を揺らした。


つり目の男は、

自分たちの胸元に揃った徽章に、

一瞬だけ視線を落とす。


それからもう一度、薄く笑うと、

興味を失ったように奥の机へと顔を向けた。


フレアも、ふん、と小さく鼻を鳴らし、

同じ方向へ視線を送る。


そこには、

薄い紫色の髪をした少女が一人、

椅子の上で身体を縮こませるように座っていた。


髪は肩先で揃えられ、

前髪が少しだけ目にかかっている。


背中を丸め、膝の上で両手の裾をきつく握りしめ、

視線は定まらず、机の端と床の間を行き来していた。


フレアはしばらく、その様子を見てから歩き出す。


背後で、三人組の男たちが、

また何かを含んだように口元を歪ませる気配がしたが、振り返らない。


足音を抑え、

少女の前にある椅子を静かに引く。


向かい合うように腰を下ろし、

フレアは、いつも通りに名乗った。


「私はフレア。ティノ村出身。よろしく!」


微笑みながら、右手を差し出す。


少女は、その手をじっと見つめたまま、固まる。


数拍遅れて、はっと我に返ったように肩を跳ねさせ目が泳ぐ。


「は、は、はわわっ……!

 あ、あの、その、わ、わ、わ、わたし……っ」


言葉が追いつかない。


「フィ、フィオナ……で、ででで、で……

 北西の……ジュ、ジュダ村、か、か、から……き、き、ききき……きまし、きました……っ」


語尾が絡まり、声が裏返る。


言い終えると同時に、

フィオナは深く頭を下げ、

そのまま動けなくなった。


フレアは、差し出した手を引っ込めることもなく、

ただ、変わらぬ調子で言う。


「……うん。よろしくね、フィオナ」


「はい……」


フィオナは、差し出された手をしばらく見つめてから、

まるで壊れものに触れるみたいに、恐る恐る指先を重ねた。


一瞬だけ、ぎゅっと力が入る。


けれどすぐに我に返ったように手を離し、

また慌てて膝の上で服の裾を握りしめた。


視線は床に落ちたまま、肩が小さく強張っている。


「……」


フレアはその様子を見て、くすっと笑った。


「ねえ」


フィオナがびくっと肩を跳ねさせる。


「なんでそんなに緊張してんの?」


「えっ、あ、そ、その……っ」


言葉が喉で詰まり、フィオナは一度、深く息を吸おうとして失敗する。


「わ、わたし……試験なんて……受けるの、初めてで……。 人も、その……たくさんで……」


声は小さく、途中で揺れた。


フレアは椅子の背にもたれ、少しだけ身を乗り出す。


「私だって初めてだよ」


あっさり言われて、フィオナはきょとんと顔を上げる。


「だけど確かに初めてってそうかも。

 私も最初は、手が震えて弓、引けなかったし」


「え……?」


「緊張しすぎてさ、試し撃ちで矢がそれて――

 村長の頭、かすめちゃったの」


「あ……、えっ!?」


「ほんとほんと。

 頭のてっぺんが川みたいに一本禿げちゃって……

 ”お前には才能がない”って、あとで散々言われた」


フレアは肩をすくめる。


「…………」


フィオナは一瞬ぽかんとして――


「……ふ、ふふ……」


堪えきれないように、口元を押さえる。


それに気づいて、フレアはにっと笑った。


「ねえ、フィオナはさ。どうして記録官になろうと思ったの?」


フィオナは一瞬、答えに迷ったように視線を泳がせる。

けれど、逃げ場がないと悟ったのか、裾を握る指に力を込めた。


「……わたしの村に、孤児が……その、何人もいて……」


言葉を選びながら、ぽつりぽつりと続ける。


「灯が足りなくて……夜、眠れない子もいて……。

大人たちは、どうしても自分の家族で精一杯で……」


喉が鳴る。


「だから……記録官になれたら、灯を……少しでも……回してもらえるんじゃないかって……」


言い終えたあと、フィオナは顔を伏せた。

自分の願いが、身勝手に聞こえたのではないかと不安そうに。


フレアは、しばらく黙っていた。

それから、ゆっくりと頷く。


「私と一緒だ」


「……え?」


「村の人を、楽にしたくて志願した。理由、それだけ」


フィオナは、はっとして顔を上げる。


フレアは照れたように鼻を掻いた。


「正直さ、記録官が何をするかなんて、全部は分かってない。でも、村で凍えたり、我慢してる人を見るのは……ずっと嫌だった」


フィオナの肩から、すっと力が抜ける。


「……同じ、ですね……」


声は、さっきよりも少しだけはっきりしていた。


「うん」


フレアは、再度にっと笑う。


「だからさ、緊張しててもいいよ。変でもいい。

 ここにいる理由は、ちゃんとしてる」


フィオナはその言葉を、胸の奥で何度も反芻するように黙り込む。


やがて、そっと顔を上げた。


「……ありがとう、ございます」


語尾はまだ少し揺れているけれど、

今度は、ちゃんとフレアの目を見ていた。


そして、控えめに――

けれど確かに、微笑った。


フレアはその笑顔を見て、満足そうに頷いた。


詰所の張り詰めた空気の中で、

二人の間だけ、ほんの少し温度が変わった気がした。


――


その頃、宿舎町の入り口。


アグリに跨った金色の鎧の一団が、石畳を鳴らして戻ってきた。

隊列は乱れていない。だが、その数は――ひとり、少ない。


「金色の上級記録官ユリウス・バルナーク様が戻られたぞ!」


迎えに出ていた記録官たちの声が、張りつめた空気を震わせる。


先頭の男が、アグリから静かに降り立つと、

槍を片手に地へ突き、背筋を正した。


短く刈りそろえられた金髪。

額には、切りそろえきれなかった一本の前髪が揺れていた。

長いまつ毛の奥の瞳は、誰とも目を合わせず、

まっすぐ前だけを見ていた。


ユリウスは、鎧についた埃を軽く払うと、

迎えの記録官に向き直り、低く告げた。


「灯喰いの討伐には成功しました。

 ですが……今回は、バルドル君が犠牲となりました」


その瞬間、周囲の空気が凍りつく。


誰かが息を呑む音。

誰かが、視線を伏せる気配。


ユリウスは一拍置き、言葉を選ぶように続けた。


「彼は清廉な記録官で、私欲のない男でした。……惜しいことをした」


さらに一拍。


「家族へは、すぐに連絡を。

 遺体は――丁重に、弔ってあげてください」


それだけを告げると、深くはないが、確かな一礼をする。


次の瞬間には、彼の表情はすでに整えられていた。

悔恨も、動揺も、そこには残っていない。

まるで、それらをすべて内側へ押し込めたかのように。


ユリウスは無意識に口髭を撫でながら、

何事もなかったかのように、石畳を歩き出した。


「……ユリウス様。ご苦労さまです」


声をかけたのは、でこの広い記録官だった。

彼もまた一礼し、自然とユリウスの半歩後ろに並ぶ。


「ああ、君か」


ユリウスは歩調を変えず、前を見たまま答える。


「ティノ村への灯の配給、ご苦労でした。

無事で何よりです」


その声は穏やかだが、どこか事務的だった。


でこの広い記録官は、少し間を置いてから切り出す。


「実は……ティノ村で、少し面白い収穫がありまして」


ユリウスの歩みが、ほんのわずかに遅れる。


「面白い、収穫?」


でこの広い記録官は足を止め、

布に包んでいたそれを、そっと差し出した。


ユリウスも立ち止まる。


布を解かれると、そこには――

淡く温かい光を宿した、ひとつの卵。


ユリウスの眉が、わずかに動いた。


「……これは」


卵を両手で受け取り、目を細める。

表面の脈打つような光を、逃すまいと見つめる。


「なんでも……カムナ、なんとか、だそうで」


その瞬間、ユリウスの瞳がはっきりと見開かれた。


「カムナ=トゥチカの卵ではないですか!」


声が、思わず強まる。

先ほどまでの抑制された調子とは、明らかに違っていた。


「一体、これをどうしたのです?」


でこの広い記録官は、少し言いづらそうに視線を逸らしながら答えた。


「ティノ村の志願者が、採ってきたそうで。

 灯を、もう少し融通してほしいと……」


一拍置き、付け足す。


「赤い髪を束ねた、生意気そうな少女でした」


その言葉に、ユリウスの指が――

卵の殻を、わずかに強く包み込む。


「赤い……髪の少女……?」


ユリウスは卵から目を離さぬまま、

その言葉を、確かめるように反芻した。

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