第3話 命の巡り道
断崖に身体を押しつけ、足幅半分ほどの細い岩の出っ張りを慎重に進む。
背中の卵は布越しでもしっかりと温かく、体を僅かに後ろへ引っ張る。
「……卵、軽くなってくれてもいいんだけど……」
愚痴をこぼした瞬間――
――ギャアアアッ!!
またあの叫び声。
霧を裂き、上空から黒い影が迫る。
「来たっ……!」
風圧が背中を押し、フレアは壁に指を食い込ませる。
必死に顔を上げ、前を見やる。
だが――視界の先が、途切れていた。
「……うそ。道、ないじゃん……!」
細い足場は、途中でぽっきり折れていた。
崩れた岩片が静かに落ちていき、底知れぬ谷に吸い込まれる。
進む道はない。
戻る時間もない。
「どーしよ……いやほんとにどーしよ……!!」
下を覗くと、白い霧の中腹に、色が抜けた布旗がひらりと揺れていた。
これも狩人達が残した道。だが高低差はかなりある。
ただ落ちれば命はない。
上空の影が、さらに濃くなる。
「やばい。来る……!!」
叫びながらも、フレアは辺りを見回し、目を細めた。
「あ! これだ!」
そこには、古い“傷跡”があった。
岩が、周囲よりわずかに白く、粉を吹いている。
指で擦ると、薄い白粉がふわりと落ちた。
「……この刃物傷……! この風化の仕方……この岩、石灰岩だ……!」
父ガロンが教えてくれた狩人の知識。
――「白っぽい岩は、雨や風で削れやすい。
ピッケルも通りやすいが、気をつけろ」
風化した石灰岩は柔らかく、刺さる。
「わかった……壁を下れってことね……!」
心臓が勢いよく跳ねる。
鼓動が卵を揺らした。
「いける……いや、いくしかない!!」
上空から影が覆う。
カムナ=トゥチカが翼を畳み、急降下を開始する。
「――ごめんね卵!! 絶対守るからあああッ!!」
フレアは旗めがけて飛び降りた。
ドォンッ!!
次の瞬間、
カムナ=トゥチカの爪が断崖を抉る。
雪と白い粉が爆ぜ、
裂けた氷の破片が飛び散った。
その一つがフレアの頬をかすめ、
赤い髪が一房、宙を舞った。
「っ――!!」
空気が震え、
急降下の風圧が、背中を叩きつける。
「いっっけぇぇぇぇぇ!!」
フレアは歯を食いしばり、
白く風化した岩へピッケルを力いっぱい突き出した。
――ガンッッ!!!
刺さった。
だが――
「うそっ!!?」
石灰岩は柔らかすぎた。
ピッケルは刺さりながらもズリッと滑り、
フレアの身体は岩肌を高速で落ちていく。
肩がぶつかり、背中の卵が揺れ、
火花のような石粉が飛び散った。
「やばいやばいやばい!!!!
止まって止まって止まって!!!!」
――キィィィィィィィィッ!!
鉄と石の悲鳴。
その直後――
――ガッ!!!
ピッケルが節理に噛み込み、身体が止まる。
視界がぶれ、呼吸が戻らない。
手が震えて握力が抜けそうになる。
「っっ……はぁ……はぁぁ……!!
死ぬかと思った……ほんとに……!!」
フレアは首をぶるんと振り、
髪がまだ残っているのを確かめた。
「ったく……私を丸坊主にする気かーーっ!!」
下を見ると、旗までは残りわずか。
ここからなら降りられる。
フレアは震える手で壁を探り、慎重にピッケルを抜いた。
深く息を吸い、ひとつ、またひとつと足を下ろす。
風が吹き上げ、身体が揺れる。
背中の卵が温かい重みで、彼女の背を押した。
「……ここまで来れば大丈夫だよ……!」
ようやく足先が旗へ届いた。
フレアは、背中へ手を回す。
卵は割れていない。動いてもいない。
「……よし……頑丈ね。この子!」
古びた布は触れただけで崩れそうだったが、
ゆっくり顔を上げると、さっきまでの細い足場とは違い、幅のある下り坂が続いていた。
フレアは息を整え、
上空を旋回するカムナ=トゥチカを見上げる。
「おっけー……ここからが本番だね……!」
フレアは背中から弓を取り出し、素早く構えた。
冷たい風が頬を斬り、指先の感覚を奪っていく。
「親鳥を仕留める気はない……。狙うのは……」
視線の先、断崖の上に白く張り出した雪塊――
雪庇(せっぴ)。
風に削られ、今にも崩れ落ちそうな、危うい白の棚。
「雪庇は風下にできる……縁は薄い……。
あそこなら矢一本で落とせる……!」
フレアは矢をつがえ、わずかな風向きの変化を読む。
胸が沈み、世界が静まる。
真っ白な霧の奥から、怪鳥の羽音だけが響く。
「……見えた……!!」
息を止め、指を離す。
——ヒュッ!
矢は風に乗り、雪庇の“縁”を正確に射抜いた。
一瞬の静寂。
次の瞬間。
——パキ……パキパキッ……!
亀裂が走り、白い板がゆっくりと前へ沈む。
「……いけ……!」
ドォォォォォッ!!!
雪庇が一気に崩れ落ち、
巨大な“白い壁”となって谷へと流れ込んだ。
吹き上がる冷気がフレアの髪をはね上げる。
ギャアアアアッ!!?
急降下していたカムナ=トゥチカは、
眼前に現れた雪の奔流に驚き、
慌てて翼を広げて急上昇した。
巻き込まれはしない。
しかし――追撃の軌道は完全に乱れる。
フレアは大きく息を吐いた。
「よしっ、これで……少しは時間稼ぎになる……!!
あとは――下るだけッ!」
フレアは足元を確かめながら、一定の歩幅で下っていく。
さっきまでの断崖とは違い、斜面はなだらかだ。
靴裏が地面をしっかり捉え、踏み出すたびに重心が安定する。
「……やった。楽勝楽勝!」
呼吸も整ってきた。
肩の力を抜き、背中の重みを意識し直す。
卵は静かだ。
揺れも、異音もない。
「……余裕、余裕。このまま一気に下るよ」
足取りは慎重だが、もはや怯えはない。
歩く速さも、少しずつ元に戻っていく。
道らしき凹みが続き、古い狩人道の名残が見て取れる。
何人もの足がここを通り、削り、固めた跡だ。
「昔の人たちに感謝しなくちゃ……おかげで無事帰れる」
風の向きも落ち着いている。
上空の羽音は、遠い。
フレアは視線を上げず、一定のリズムで歩き続けた。
一歩。
また一歩。
その時だった。
フレアの足裏が――沈んだ。
「……?」
踏みしめたはずの地面が、妙に柔らかい。
岩のはずなのに、返ってくる感触がない。
次の瞬間――
ジャリ……。
小さな音が、やけに大きく響いた。
「……まずっ」
言い終わる前に、足元が崩れた。
地面の表層が、皮を剥がすようにずるりと滑り落ちる。
土と砂利と砕けた石灰岩が、波のように前へ流れ出した。
「うわっ――!」
フレアは反射で後ろ足を引き抜き、前へ跳ぶ。
だが、次の一歩も同じだった。
ズルッ!!
ガラガラガラッ!!
足場そのものが、斜面ごと動き始める。
「っ……走るしかない……!! 昔の人、なんでこんな道にしたのよぉ!!」
フレアは身体を前傾させ、崩れゆく斜面を駆け下りる。
足を置いたそばから、地面が崩れる。
止まれば飲まれる。
立ち止まる余裕はない。
「このっ……っ!」
小石が弾き、脛を打つ。
背中の卵が揺れ、思わず歯を食いしばる。
「大丈夫……! 揺れるだけ……!」
言い聞かせるように叫び、フレアは腕を振った。
視線は下。
足元だけを見る。
ガラガラガラガラッ――!!
古い狩人道が役目を終えたかのように、背後で音を立てて崩れ落ちていく。
風が舞い上がり、土埃が視界を白く染める。
「……っ、まだ……!」
前方に、わずかに色の違う“空間”が見えた。
霧が薄く、奥が暗い。
地面が――ない。
「……谷……!? だめだめだめだめ!!!!」
それでも足元の斜面が大きく沈んでいく。
もはや止まれない。
「――死ぬ死ぬ。死ぬって!!」
フレアは視線を走らせる。
谷の向こう側、霧の切れ目に垂直に立つ岩壁が見えた。
白く風化した石灰岩。
判断は一瞬。
フレアは最後の一歩を踏み切り、空へ飛び出した。
胃が浮く。
足元が、完全に消えた。
背後で、斜面がまとめて崩落する音が轟く。
地鳴りのような振動が、空気を揺らした。
「いけぇぇぇぇッ!!」
空中で腰をひねり、身体を前へ伸ばす。
腕を振り抜き、ピッケルを構えた。
――ガンッ!!
鈍い衝撃。
刃が、向こう側の岩壁に突き刺さる。
「っ……!!」
腕に衝撃が走り、身体が宙で大きく揺れた。
だが――
――ギッ!
石灰岩に食い込んだ刃が、確かに噛んだ。
フレアの身体は、谷へ落ちきる寸前で止まる。
視界が揺れ、霧が渦を巻く。
下では、崩れた斜面が音もなく闇へ消えていった。
「……っ、は……っ……」
フレアは歯を食いしばり、両足を壁へ押しつける。
震える腕で、ピッケルを深く打ち込んだ。
「……セーフ……!!」
だが、まだ安心はできない。
上空で、羽音が聞こえる。
――ヒュウゥ……バサァッ!!
「……っ!」
フレアは息を呑む暇もなく、壁に指を食い込ませる。
休む余裕はない。
腕が悲鳴を上げている。指の感覚も曖昧だ。
それでも、登る。
――ザッ!
ようやく岩の縁に肘を掛け、身体を引き上げた、その瞬間。
バサァァッ!!
霧が、一気に押し流された。
風が止み、視界が開ける。
断崖の向こう、空を塞ぐように――
カムナ=トゥチカがいた。
広げた翼は、岩壁よりもなお大きい。
艶美な真紅の羽毛の下で筋肉がうねり、
鉤爪が岩を掴むたび、石が砕け落ちる。
「……でか……やっと、顔見せてくれたね……!」
思わず、声が漏れる。
フレアは即座に背中へ手を伸ばし、弓を引き抜いた。
指先がかじかみ、弦を張る感覚が鈍い。
「仕留める気はないって言ってるじゃん……」
そう呟きながら、矢をつがえる。
視線は、ぶれなかった。
「……だけどさすがにごめん。もう体力の限界……」
息を整え、弓を引き絞る。
狙いを、わずかに下げる。
羽毛の流れを外し、胴にも入らない位置。
翼の付け根――やや後方の飛翔筋。
カムナ=トゥチカが、翼を大きく打ち下ろし、
突風がフレアの髪を煽ったその刹那――
「……今だ」
息を止め、指を離す。
――ヒュッ!!
矢は風を裂き、
羽毛の縁をかすめるように走った。
ギャアアッ!!
悲鳴が、空に響く。
翼が、打ち下ろした拍子にわずかに抜ける。
力が入らず、羽ばたきの周期が崩れた。
巨体が大きくよろめく。
血は、線を引くように散る。
だが、深くは入っていない。
カムナ=トゥチカは高度を保とうと翼を打つが、
左右が噛み合わない。
羽ばたくたび、動きが鈍る。
ギャアアアッ……!!
悔しげな声を残し、
怪鳥は高度を下げながら、霧の向こうへ退いた。
やがて、羽音は遠ざかる。
フレアは弓を下ろし、膝に手をついた。
消えていく霧の向こうを、しばらく見つめ小さく呟く。
「……あなたの卵は、村のみんなの糧になる。
生きるために、その命を使わせてもらうよ。
だから……あなたも、生きて」
その瞬間だった。
「――あ」
足元が、ずるりと滑った。
苔だ。
湿りきった、柔らかい苔。
「ちょっ――!」
反射で身体を丸め、
咄嗟に布を前へ引き寄せる。
卵を、胸に抱え込む。
次の瞬間、視界が回り――
ズルズルズルッ……!
斜面を、情けない音を立てて滑り落ちた。
辺りにはもう雪は残っていなかった。
地面は、深い緑に変わり、
冷たい岩の匂いも、土と草の湿った匂いに塗り替えられている。
「わ、わ、わ、わ――っ!!」
最後は、
ふかふかの苔の絨毯に、
そのまま尻餅をつく。
ぽすっ。
「……」
フレアは、きょとんと周囲を見回した。
木々。
いつもの、見慣れた森。
「あは……」
思わず、笑いが漏れる。
「……いつもの森じゃん。
帰ってこられた」
力が抜け、肩が落ちる。
フレアは卵をそっと下ろし、
周囲に生えていた若い葉を千切り、躊躇いなくかじった。
「……にっが……」
顔をしかめつつ、噛み砕く。
「……だけどさ。
ちょっと大変だったな……」
卵に視線を落とし、苦笑する。
「卵取りだけに……」
一拍置いて。
「……えっぐい……」
――
旅立ちの日。
ティノ村広場にて。
「……卵?」
配給の荷車を引いてきた、でこの広い記録官が手を止め、目を開く。
大きく、丸く、淡い斑紋の入った殻。
「でかくて……珍しいな」
興味深そうに、そっと手を伸ばし、殻を撫でた。
「でしょ」
フレアは胸を張る。
「カムナ=トゥチカの卵だよ。
命懸けで取ってきたんだ。ね、ちょっと配給、おまけしてよ」
記録官は苦笑し、首を振った。
「すまんが……余分は、このランタン一個しかない」
荷台から小ぶりの灯のともるランタンを取り出す。
「これなら回してやれる」
「え〜……一個……」
不満げに頬を膨らませるフレアに言う。
「記録官の宿舎町には、“金色の上級記録官“様の屋敷がある。あの方に見てもらえれば……
取り計らってもらえるかもしれん」
フレアの目が、きらりと光った。
「ほんと?」
「ああ。保証はできんがな」
「わかった。頼むよ」
そう言って、フレアはにっと笑う。
次の瞬間、
軽やかに荷車へ飛び乗った。
車輪がきしみ、アグリが小さく嘶く。
「フレア――必ず、記録官になるんだぞ」
父ガロンが、静かに言った。
厳しい声ではない。
背中を押すような、まっすぐな声だった。
「身体には気をつけるのよ」
母ミナは、少しだけ眉を下げて微笑む。
言葉とは裏腹に、その目は名残惜しさを隠しきれていない。
その周りで、村人たちが手を振っていた。
フレアは荷車の上から、皆を見渡す。
卵を抱え、
そして、笑った。
「ありがと」
少し間を置いて、声を張る。
「行ってくるよ!
必ず――記録官になってくる!」
最後にもう一度、手を振る。
車輪が回り、
荷車はゆっくりと動き出した。
村は、少しずつ遠ざかる。
だが、背中は軽かった。
フレアの旅は、
ここから本当に始まる。
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